story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 75
無傷の10連勝でダービーを制した「幻の馬」
トキノミノルの残した蹄跡
2022年8月号掲載掲載
初めて馬群の内を進んだ
26頭立ての日本ダービー
第18回日本ダービーのバリヤーが上がった。26頭の出走馬が走り出す。トキノミノルは初めての多頭数の競馬で、初めて馬群の内でレースを進めた。序盤は7番手。2コーナーを回り、向正面に入るあたりから徐々に進出し、先頭に立った。そのまま最後まで先頭を譲らず、43年クリフジの記録を破る2分31秒1のレコードでゴールを駆け抜けた。1馬身半差の2着はイツセイ。前走の皐月賞も2着は同馬だった。
10戦10勝でダービー制覇。熱狂したファンが本馬場になだれ込み、勝ち馬と関係者が人の波に呑み込まれるという前代未聞のフィナーレとなった。騎手デビュー17年目の岩下と、20頭ほどを所有してきた永田にとっては初めての「競馬の祭典」の栄冠となった。三冠獲得は確実と言われ、永田はアメリカ遠征プランを発表した。トキノミノルは日本の競馬史をさらに大きく書き換えようとしていたのだが――。
ダービーの5日後あたりから元気がなくなり、14日後の6月17日に破傷風であることがわかった。血清やペニシリン注射、麻痺薬の浣腸、鎮痛剤の投与など様々な措置がほどこされた。そうした関係者の必死の看病も虚しく、6月20日の夜、トキノミノルは世を去った。自身は助からなかったが、それまで不明なところの多かった破傷風の研究に大きく寄与することになった。
翌21日の「読売新聞」社会面で、3段にわたってトキノミノルの死が報じられた。また、同日の「夕刊毎日新聞」(22日付)社会面でも「名馬トキノミノル急死」と報じられ、永田と、彼に誘われて馬主となった作家・吉屋信子の談話が掲載された。吉屋の談話を引用する。
〈トキノミノルは天から降りて来た幻の馬だ。競馬界最高の記録をうちたて、馬主にこの上ない栄冠を与えたまままた天に帰って行った。強く後世まで印象に残るだろう〉
翌日の「産業経済新聞」には、「秋から記念レース」という見出しと、「急死した名馬トキノミノル 米国遠征の夢空し」という小見出しとリードにつづき、〈作家吉屋信子さんのいうように天から降ってきた幻の馬トキノミノルは〉と始まる記事が載った。
トキノミノルは天に召されてほどなく「幻の馬」として人々の心に刻み込まれたのだ。最初は馬主もさして期待していなかったのに、10戦すべてで圧勝し、うち7戦がレコードだった。途中から先頭に立ってねじ伏せたダービーでは、この世のものとは思えぬほどの力の違いを見せつけた。まさに彗星のごとく現れて国営競馬を窮地から救い、人々に大きな夢を見せ、その夢と共に天に帰った「幻の馬」だった。
トキノミノルは、イギリスで7戦7勝という戦績を残して種牡馬となったザテトラークの3×4のインブリードを有している。この馬の活躍によって、3×4の18・75㌫が「奇跡の血量」として日本でも広く認知されるようになったのだ。
トキノミノルを題材とした映画「幻の馬」が大映により製作され、55年に公開された。故郷・宮崎の中学校でこの作品を見た池江泰郎は、同じころ、騎手への道を教師から勧められた。そして半世紀後、ディープインパクトの管理調教師として三冠を制する。ディープが皐月賞を勝ったとき、単勝支持率がトキノミノルに次ぐ歴代2位だったことが話題となり、トキノミノルに改めて光が当てられるなど、歴史的名馬の蹄跡はつながっていたと言える。
66年12月、東京競馬場のパドック脇に三井高義の手によるトキノミノルのブロンズ像が設置された。69年から共同通信杯に「(トキノミノル記念)」と副称がつけられるようになり、84年には顕彰馬に選出された。
トキノミノルは様々なものを私たちに残し、天に帰って行った。(文中敬称略)
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トキノミノル TOKINO MINORU
1948年5月2日生 牡 鹿毛
- 父
- セフト
- 母
- 第弐タイランツクヰーン (父Soldennis)
- 馬主
- 永田雅一氏
- 調教師
- 田中和一郎(東京)
- 生産牧場
- 本桐牧場
- 通算成績
- 10戦10勝
- 総収得賞金
- 425万7150円
- 主な勝ち鞍
- 51日本ダービー/51皐月賞/50朝日盃3歳S
- 表彰歴等
- 84年顕彰馬に選出
- JRA賞受賞歴
- ―
2022年8月号掲載