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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 75

無傷の10連勝でダービーを制した「幻の馬」
トキノミノルの残した蹄跡

島田 明宏 AKIHIRO SHIMADA

2022年8月号掲載掲載

競走成績10戦10勝、皐月賞、日本ダービーを含めレコードタイム7回。
終戦直後に現れたトキノミノルにはアメリカ遠征の夢が広がっていた。
短い生涯だったが競馬関係者にもファンにも強く印象を残した。

    買い手がつかなかった
    血統名「パーフエクト」

    ©JRA

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     2018年に日本ダービーを制したワグネリアンが、今年1月5日、多臓器不全のため急死した。現役のダービー馬の死は、大きな悲しみをもって受け止められた。過去にもダービー馬が現役時代に他界した例はあり、1935年のダービー馬ガヴアナー、37年のヒサトモ、40年のイエリユウ、51年のトキノミノル、65年のキーストンなどがいる。

     なかでも、その驚異的な強さとドラマチックな「馬生」ゆえ、後世に広く語り継がれているのが、「幻の馬」トキノミノルである。

     トキノミノルは48年5月2日、三石村(現・新ひだか町)の本桐牧場に生まれた。

     父は47年から51年までリーディングサイヤーとなったセフト。母の第弐タイランツクヰーンは、小岩井農場がイギリスから輸入したタイランツクヰーンの腹に入っていた持込馬。当時は、複数のダービー馬を出していたトウルヌソルやシアンモアといった種牡馬に対し、セフトは短距離向きと見られていた。また、兄や姉たちの競走成績も今ひとつ冴えず、「パーフエクト」という名で血統登録されたトキノミノルも、なかなか買い手がつかなかった。

     しかし、初代三冠馬セントライトを育てた伯楽・田中和一郎によって見いだされ、映画会社「大映」社長の永田雅一が100万円という高値で購入することになった。

     デビュー戦は、旧3歳時、50年7月23日に函館芝800㍍で行われた新馬戦。鞍上は岩下密政。2日前のスタート練習で大暴れし、いったんは出走を断られてしまったのだが、変則三冠牝馬クリフジなどのオーナーとして知られる栗林友二の口添えもあり、出走にこぎ着けた。全姉のダーリングは発馬に難があり、それも係員の心証を悪くする一因になっていたようだ。現に同馬は、弟の初陣と同日の第1レースを勝つには勝ったが、バリヤーの前で興奮して発走を16分も遅らせていた(当時はまだゲートが導入されていなかった)。

     トキノミノルもパドックからコースに向かう途中で暴れ出し、岩下を振り落としてしまった。3頭立ての2番人気という評価に甘んじたトキノミノルはしかし、バリヤーをかいくぐるようにダッシュするとそのまま後ろを引き離し、2着に8馬身差をつけて逃げ切った。勝ちタイムの48秒1は日本レコード。上がり3ハロン35秒というのも当時としては凄まじいタイムだった。

     馬主の永田は競馬場には来ていなかった。永田は、尊敬する「文壇の大御所」菊池寛が2年前の48年に急死したあと、その遺志を継ぎたいという思いから、菊池が所有馬につけた「トキノ」の冠を有力馬につけることが多くなっていた。にもかかわらず、この馬を「パーフエクト」という名のまま走らせたのは、さほど期待していなかったからだろう。

     ところが、この、とてつもない勝ちっぷりである。永田は「永田ラッパ」と呼ばれるほどの大言壮語で知られる情熱家だった。渇望しながら手の届かなかったダービーを意識した彼は大いに興奮した。新馬戦の数日後、府中の田中厩舎で、田中と生産者の笠木政彦(本桐牧場の経営者兼場長)と面会し、「トキノ」の冠号に、成績が実るようにという意味で「ミノル」をつけ「トキノミノル」と改名することを決めた。

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