競馬場レースイメージ
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出走馬の様子
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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    先進的なヨーロッパの血統と
    育成方法を導入

    1967年のワシントンD.C.インターナショナル、69年のヨーロッパ遠征と、当時は珍しい海外遠征の先駆者であったスピードシンボリ©JRA

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     スピードシンボリをつくったのはシンボリ牧場(千葉県香取郡大栄町=現・成田市)の和田共弘である。

     日本競馬を代表する名オーナーブリーダーとして知られる和田は、社台ファームの吉田善哉とよく比較された。日本人のほとんどがヨーロッパから馬を買ってきていた時代にアメリカに進出していった吉田は、自ら「太平洋を股にかけた博労」と称し、貪欲に馬を売買し、世界に名だたる巨大牧場グループの土台を築いた。一方、イギリスやフランスの格式ある競馬を憧憬していた和田は、アメリカの競馬を「箱庭競馬」と揶揄し、「博労」の意味があるということで「伯楽」と呼ばれることも嫌った。ヨーロッパのオーナーブリーダーのように、自分の手で理想とする競走馬をつくることに喜びを見出していた和田の到達点がシンボリルドルフであり、母の父として血をつたえたのがスピードシンボリである。

     スピードシンボリ(父ロイヤルチャレンヂャー、母スイートイン)は1963年5月3日に北海道新冠町の日高シンボリ牧場でうまれた。いかにもステイヤーらしく、体全体が薄く、ひょろりとして、脚の長さがめだった。しかし体は柔らかく、バネがあった。

     和田は31歳だった53年に5か月間かけて欧米の競馬場や牧場をまわっているが、このときイギリスで目をつけたライジングライト(イギリスの大種牡馬ハイペリオンの産駒)を2年後に輸入している。スイートインはライジングライトの娘で、それにロイヤルチャレンヂャーを種付けしたのは、ライジングライトの牝馬にロイヤルチャージャー(ロイヤルチャレンヂャーの父)を配合された馬が活躍するのをヨーロッパで見てきたからだ。

     日高の牧場でうまれたスピードシンボリは千葉の本場に移動したあと、さらに岩手県種市町(現・洋野町)の高原につくられた岩手シンボリ牧場に移って本格的なトレーニングが積まれている。

    「育てる場所を変えなさい。環境を変えることで、肉体的にも精神的にも強い馬に育つのです」

     ヨーロッパ旅行中、BBA(イギリスのサラブレッドの商社)の会長だったマクリゲットという人物からそう教えられた和田は、岩手にも牧場を開設し、北海道、千葉、岩手と馬を移動させながら育てる「三元育成」をスピードシンボリの世代からはじめている。生産牧場と育成牧場を分けるのは現在ではごく普通におこなわれているが、当時の日本では画期的なシステムだった。

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