story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 68
武豊騎手に初GIをプレゼント
スーパークリークと信念の襷
2021年12月号掲載掲載
打倒オグリキャップを
果たすための果敢な運び
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スーパークリークがもうひとつの衝撃を与えることになる1989年。ステイヤーにとっては最高峰のレースである天皇賞(春)を目指していたが、後肢筋肉痛の症状を見せ休養が必要と判断され北海道へ放牧に出された。そして前年同様、夏の函館競馬場入厩を経て栗東トレセンへ帰厩した。休養明け初戦は10月8日のGⅡ京都大賞典。再び時間をかけて鍛えられた馬体は、伊藤ら厩舎スタッフに実の入りを感じさせ、晩成のスーパークリークがようやく完成の域に到達したと評価された。優勝タイムの2分25秒0はレコードだが余裕を感じさせる内容で、メディアやファンの注目は「距離短縮」の天皇賞(秋)へと切り替わった。国際化、そして国際競走対策としてスタミナよりも中距離的な持続性あるスピードの必要性が高まる中、同レースの距離が3200㍍から2000㍍に変更されたのは1984年で、同年は三冠馬ミスターシービーが優勝している。スーパークリークの天皇賞(秋)挑戦は3週間後の10月29日。私はこの年の秋のことをよく覚えている。「一体、武豊はどう乗るんだろう」。
第100回天皇賞(秋)は14頭が出走し、スーパークリークは何と最外の14番枠から発走となった。舞台は複雑な東京の2000㍍である。武は枠順確定後に思い切って先行策を取ることに決めた。レジェンドテイオーがいつも通り飛ばし、武は3番手の位置を確保する。後日、武は「オグリキャップに勝つというより、どうしたらオグリに負けないかを考えていましたね」と語っている。ステイヤーの資質を活かして自身も馬群を引っ張る形で進み、第4コーナーでも落ち着いて他馬を見ながら、愛馬の集中力を維持できるタイミングで追い出す。それでも「突然、オグリが迫ってきた。物すごい追走だった」と武はレース後に僅かクビ差の決着を振り返った。
大学卒業後、欧米での5年間の実務研修中、私は多くのレースで騎手が勝つための位置取りを馬に課し、それに馬が応えて勝つレースをたくさん見てきた。そこには「馬なり」にさせない、騎手の厳しさ、レースの厳しさを感じて「これが競馬だ」と思わせる迫力があった。だから欧米にあってもあの天皇賞(秋)を何度も思い出し、今もあれが同馬のベストレースだと考えている。
翌年には前年の有馬記念(2着)で後塵を拝したイナリワンを下して天皇賞(春)を制覇。その後、天皇賞(秋)連覇を目指した矢先に左前脚の繋靭帯炎を発症し、ターフを去ったスーパークリーク。同馬の誕生に立ち会った柏台牧場場長、長谷川敏によると、この配合は天皇賞(春)や菊花賞を意識した配合なのだという。この馬の才能を信じた伊藤、武、岡田らとの出会いが同馬を名馬に育て上げた。所有する木倉の願いは現実のものとなり、スーパークリークという大河は今もなお豊かな水流を維持して、私達の思い出の中で流れ続けている。(文中敬称略)
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スーパークリーク SUPER CREEK
1985年5月27日生 牡 鹿毛
- 父
- ノーアテンション
- 母
- ナイスデイ(父インターメゾ)
- 馬主
- 木倉誠氏
- 調教師
- 伊藤修司(栗東)
- 生産牧場
- 柏台牧場
- 通算成績
- 16戦8勝
- 総収得賞金
- 5億6253万5200円
- 主な勝ち鞍
- 90天皇賞(春)(GI)/89天皇賞(秋)(GI)/88菊花賞(GI)/90・89京都大賞典(GⅡ)/90大阪杯(GⅡ)
- JRA賞受賞歴
- ―
2021年12月号掲載