story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 63
挫折と栄光を横山典弘騎手と共に
メジロライアンの歩んだ道
2021年6月号掲載掲載
さまざまな期待が渦巻く
競馬ブームの中のダービー
この競馬ブームの時期には、競馬をとりまく環境にさまざまな変化があった。
ひとつは若手騎手の活躍。85年デビューが第1期生だったJRA競馬学校を卒業した騎手たちの活躍が目覚ましかった。この年の日本ダービーではその若手騎手の騎乗が目立ち、競馬学校1期生から柴田善臣、2期生は横山と松永幹夫、3期生の武豊は皐月賞を制したハクタイセイに乗り替わりでの騎乗。デビューしてわずか3年目の4期生では、当時日本ダービーのトライアルだったNHK杯をユートジョージで制した岡潤一郎がいた。またダービーでの騎乗はなかったものの、1週前のオークスをエイシンサニーで制したのは、4期生の岸滋彦。女性ファンが若手騎手をアイドル的な視点で応援するようにもなっていた。
もうひとつは父内国産馬、いわゆる“マル父”の活躍が目立ってきたこと。当時、種牡馬リーディングの上位はほとんど輸入種牡馬によって占められていた。90年の総合種牡馬ランキングを見ると、トップテンに入っている内国産種牡馬はトウショウボーイ、マルゼンスキー、それにメジロライアンの活躍でアンバーシャダイがようやく10位に食い込んだまで。しかしこの年の日本ダービーの出走馬を見ると、22頭中ちょうど半数の11頭が“マル父”。中でも皐月賞を制したハクタイセイの父は、70年代に第一次競馬ブームを巻き起こしたハイセイコーで、その父が制することができなかったダービー制覇にも期待がかかった。
現在まで更新されることのない入場人員レコードとなった19万6517人の大観衆を集めて行われた日本ダービーは、メジロライアンが1番人気、単勝3・5倍の支持を受けた。
単騎で逃げたのはアイネスフウジン。3番手から3コーナー過ぎで早めにつかまえに行ったハクタイセイは直線で失速。中団を追走していたメジロライアンはと見れば、馬場の真ん中をただ1頭、アイネスフウジンに迫る勢いで伸びてきた。しかし1馬身1/4届かず2着。
アイネスフウジンの勝ちタイムは2分25秒3。2年前のサクラチヨノオーのダービーレコードより1秒も速いタイムでの逃げ切りは驚きだった。ライアンは負けてなお強し。しかしメジログループには4度目の日本ダービー2着だった。