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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 60

ノド鳴りを克服したGI5勝馬
ダイワメジャーの果てなき挑戦

軍土門 隼夫 HAYAO GUNDOMON

2021年3月号掲載

1勝馬の皐月賞Vという偉業を果たした直後に、喘鳴症を発症。再びターフに戻ると
マイルでは「復活」の一言では片づけられない強さを誇り、舞台は異なるカテゴリーへ。
彼を形容すべき言葉を探しながら、その歩みを振り返ろう。

    ©H.Ozawa

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     JRAポスター「ヒーロー列伝」は2020年時点でフィエールマンまで85枚が作られているが、馬のコピーは7枚目のテンポイントに「流星の貴公子」と小さく入ったのが最初で、必ず入るようになったのは9枚目のモンテプリンスからだった。

     キャッチコピーは、概ね短い。

     「天馬、空をゆく。」(トウショウボーイ)、「愛さずにいられない。」(ステイゴールド)、「瞳に夢を。」(アーモンドアイ)。反対に、長いものもある。最長はヤマノシラギクの「すべての競馬場で走り、そして最後は秋の淀で自分らしい花を見事に咲かせたね……。」で、39文字もある。

     2番目に長いのがダイワメジャーだ。「速さと強さの理想、才能と努力の結実、未踏の頂点に君臨。」で27文字。手紙調のヤマノシラギクのコピーが、長さそのものも狙いに含まれたものだと考えれば、実質的にはこれが最長と見ることもできる。

     コピーは長いが、しかしその長さは、逆にダイワメジャーについて端的に言い表しているともいえる。

     気性難や破天荒さのエピソードと相反する、レースでの安定感。喘鳴症と戦っていたことを忘れそうになるほどの頑健な印象。そして成績は明らかに超一流マイラーなのに、その「マイラー」から逸脱した部分にこそ感じられる真価。そういったものたちが、ダイワメジャーのイメージを言葉にすることを難しくする。つい冗長に、理屈っぽくなる。

     言葉を与えた途端にそれを超える、でっかい器。たぶんそれこそがダイワメジャーという馬の本質なのだ。

    母系から特徴を受け継ぎ、若駒の頃からエピソードに 事欠かない馬だった(写真は2歳時のダイワメジャー) ©S.Sakaguchi

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    代々受け継がれるパワーと
    気性がもたらした2つの事件

    2004年 皐月賞 ● 優勝 トライアルで3着に入り出走権を得たが、10番人気の低評価。それでも早め先頭から押し切り、戴冠を果たした©H.Suga

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     ダイワメジャーは01年4月8日、北海道千歳市の社台ファームで、スカーレットブーケの7番目の仔として生まれた。父はサンデーサイレンス。最後から3番目の世代になる。

     しかしダイワメジャーは、薄手の馬体やシャープな動きを特徴とする典型的なサンデーサイレンス産駒とは、大きく異なるタイプの馬だった。

     栗毛の筋肉質な馬体とパワフルな動きは、1991年牝馬クラシックを賑わせ、重賞4勝を挙げた母のスカーレットブーケ譲りだった。

     さらに遡れば、その母で73年に社台ファームがアメリカから輸入した繁殖牝馬スカーレットインクもまた、栗毛の、気性のきつい、牝馬離れしたパワーを持つ馬だった。

     社台ファームの調教主任である斎藤孝は、85年にスカーレットインクに跨った際、その幅のある馬体と筋力に驚いたという。ウォーキングマシンなどなかった当時は、運動のため空胎の繁殖牝馬に人が乗ることがあり、雪の中、鞍を着けて走ったのだ。貴重な証言と言わざるを得ない。

     そしてそのパワーと栗毛の馬体は父である種牡馬クリムゾンサタンから受け継がれていた。

     社台ファームの吉田照哉代表は若き日のアメリカ修業時代に同馬を見ており、「馬離れ」したパワフルな馬で、スカーレットインクはそれを受け継いでいた、と振り返っている。

     クリムゾンサタン直系の父系は途絶えたが、母の父としては優秀で、マウントリヴァーモアやロイヤルアカデミーが出た。さらに母の母の父としてはダイワメジャーの他、大種牡馬ストームキャットが出ている。

     胴が短く、脚が長く、筋肉質な馬だったと伝えられるクリムゾンサタンだが、その性格は「アンソーシャル」(非社交的、無愛想)で、騎手の言うことを聞かず、鞭はほとんど利かなかったという。

     ダイワメジャーもまた、そうした生来のものなのか、あるいは並外れた体格でガキ大将的な幼少期を送ったことが原因なのか、非常にわがままで神経質な馬に育っていく。牧場でも厩舎でも、とにかく人の言うことを聞かず、なまじパワーがあるため曳き運動すらままならない。そんな気性難エピソードの最たるものが、新馬戦のパドックで地面に腹ばいになってしまったという珍事だ。

     若い頃のダイワメジャーは神経質で下痢をしやすく、このときも腹痛で座り込んだのだろう、と上原博之調教師はのちに語っている。いずれにせよ、その直前の装鞍所でも凄まじく暴れており、普通ならレースにならないはずのこの新馬戦で、ダイワメジャーは出遅れながらクビ差の2着まで追い込んで周囲を驚かせる。

     その次走、ダートの未勝利戦は9馬身差圧勝。と思ったら500万下戦で4着。GⅡのスプリングSで3着に頑張ってギリギリで皐月賞の出走権利を獲得すると、なんとこの大一番を10番人気で勝ってしまった。1分58秒6は皐月賞レコードに0秒1差と破格の好タイム。1勝馬の勝利は54年ぶりの大事件で、しかもその1勝はダート戦。すべてが豪快で破天荒な皐月賞馬の誕生だった。

     そんなダイワメジャーはダービー6着で春を終え、秋は中距離路線へ進んだ。しかしオールカマー9着、天皇賞(秋)17着と、なんと2戦続けて最下位に終わってしまう。原因は喘鳴症、いわゆるノド鳴りだった。

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