競馬場レースイメージ
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出走馬の様子
馬の横顔イメージ

story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    憧れの舞台への挑戦も
    突然の戦いの終焉

     97年の3月、サクラローレルは新規に厩舎を開業した小島太の管理馬となった。

     小島は自らが手綱をとっていたころからローレルの高い能力を感じ、いつかフランスの競馬へ、凱旋門賞へ出走させたいという夢を温め続けていた。それが究極的な憧れの舞台だったからだ。

     若き日の小島にとって憧憬の存在は“ミスター競馬”と呼ばれた名騎手、野平祐二だった。野平は凱旋門賞に出走するなど、スピードシンボリと欧州へ長期遠征したほか、フランスに滞在して本格的に海外で騎乗した、国際化における“先駆者”であった。スマートな騎乗スタイルはもちろん、メディアに対するスタイリッシュな言動にも影響を受けた。のちには自身のコネクションを活かし、機会あるごとに足を運んでフランスで騎乗するようになった。

     小島は馬の成長と圧勝での有馬記念制覇を受けて、機は熟したと捉えていた。

     97年、連覇を目指す天皇賞(春)へは“ぶっつけ”で参戦した。当時は公にされることはなかったが、実は有馬記念のあと、球節に軽い骨折が見つかって調整が遅れたための措置だったが、それでもサクラローレルはいったん先頭に立つ積極的なレースで勝利を掴みかけた。残念ながら捨て身とも言える後方一気にかけたマヤノトップガンに屈して2着に敗れたが、しかし一方で、いよいよ遠征のプランが具体化し、あらたに鞍上へ武豊を迎えることを決めて8月、フランスへ旅立った。

     夢の舞台への道程にありながら、小島の胸中はざわついていた。天皇賞のあとも俗に言う「モヤモヤした状態」だったからだ。

    「一時は再起不能と言われた馬だから、連れて行くこと自体が賭けだった。脚がもてば勝負になるが、もたなければそれまで、と」

     調教師を引退する際の取材で小島は当時の苦しい心境をそう振り返っている。

     9月14日、ロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞へのステップレース、フォワ賞。サクラローレルは直線に向いてフットワークを乱して後退。異変を感じ取った武豊は無理には追わず、8頭立ての最下位でレースを終えた。ゴールを過ぎた1コーナー付近で武は馬を下りてスタッフの迎えを待っていた。診断は「屈腱不全断裂」。それはサクラローレルの競走生活の終止符を意味していた。

           ◇

     通算成績は22戦9勝、GI勝利は二つというのは特段目立つような数字ではない。しかし96年、競走生命を絶たれかねない重傷から再起し、その能力を存分に発揮できたときの強烈なパフォーマンスは歴代の名馬と比べても遜色がないどころか、トップクラスにランクされるべきものだと私は思う。

     フランスからやってきた不屈の魂を持つ駿馬。その記憶はいまもファンの脳裏に深く刻みつけられている。       (文中敬称略)

    1997年 天皇賞(春) ● 2着 マヤノトップガンの追い込みに屈し2着。秋はフランスに遠征するも、 凱旋門賞に挑むことはできなかった©H.Watanabe

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    サクラローレル SAKURA LAUREL

    1991年5月8日生 牡 栃栗毛

    Rainbow Quest
    ローラローラ(父Saint Cyrien)
    馬主
    ㈱さくらコマース→全尚烈氏→㈱さくらコマース
    調教師
    境勝太郎(美浦)→小島太(美浦)
    生産牧場
    谷岡牧場
    通算成績
    22戦9勝(うち海外1戦0勝)
    総収得賞金
    6億2699万1000円
    主な勝ち鞍
    96有馬記念(GI)/96天皇賞(春)(GI)/96オールカマー(GⅡ)/96中山記念(GⅡ)/95金杯・東(GⅢ)
    JRA賞受賞歴
    96JRA賞年度代表馬、最優秀4歳以上牡馬

    2020年10月号

    三好 達彦 TATSUHIKO MIYOSHI

    1962年生まれ、香川県出身。立教大学文学部卒業。雑誌やweb媒体などで競馬のほか、サッカー関連の記事も執筆。

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