story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 56
戦時下を駆けた無敗の名牝
クリフジと若き天才
2020年9月号掲載
戦況が悪化する中果たした
史上初の快挙
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7月29日、キスカ島から日本軍が撤退。8月から9月にかけて、上野動物園では都長官の命令で、クマやライオン、ヒョウ、ゾウなど、空襲を受けたときに危険とされる動物が殺処分された。
そうした状況下で、前田とクリフジは京都競馬場に滞在する。彼らが参戦したのは阪神競馬の秋季開催だった。が、阪神競馬場は海軍に引きわたされていたため、この開催は京都競馬場で行われた。
前田が付きっ切りで調教したクリフジは、9月25日、対古馬初戦となった古呼馬を3馬身差で完勝。次走、10月3日、京都芝2400㍍で行われたオークス(当時は阪神優駿牝馬)では、2着に10馬身差をつけて逃げ切った。
クリフジは、つづく2戦の古呼馬も10馬身差で圧勝し、11月14日、京都芝3000㍍の菊花賞(当時は京都農商省賞典4歳呼馬)に臨んだ。道中は3番手につけて3コーナーから進出。ラスト600㍍地点で先頭に立ち、2着に大差をつけて優勝。史上初の「変則三冠馬」となった。
太平洋戦争の戦況はさらに悪化し、秋季中山開催終了後の12月17日、東条英機内閣はついに競馬開催の一時停止を閣議決定した。
かくして翌1944年、東京競馬場および修錬場(のちの馬事公苑)と京都競馬場で、観客もなく、馬券も売られない春秋2回の能力検定競走が行われることになった。
クリフジは春季東京能力検定競走で3戦する。年明け初戦は4月23日の呼馬駈歩5歳第二級。ここを5馬身差で勝つ。翌週、4月30日の呼馬駈歩5歳第一級を10馬身差、5月7日の横浜記念を6馬身差で圧勝。通算成績を11戦11勝とした。11戦すべてが力の違いを見せつけての完勝だった。最強の女傑として、その名を競馬史に刻みつけた。
横浜記念を勝ったあと、5月28日に京都競馬場で行われる天皇賞(当時は帝室御賞典)に出走する予定だったのだが、汽車輸送の途中で風邪をひき、現地到着後に発熱。不出走に終わり、結局、横浜記念が引退レースとなった。
クリフジは、買い戻し条件がついていたため、引退後、故郷の下総御料牧場に帰った。名前が「年藤」に戻り、1945(昭和20)年4月、小岩井農場でシアンモアを配合したあと、戦火を逃れて北海道の日高種畜牧場に移動。戦後の1949年7月、下総御料牧場に戻ってきた。繁殖牝馬として、クモハタ記念を勝ったイチジヨウ、1954年の桜花賞とオークスを勝ったヤマイチ、金杯を勝ち、天皇賞で2着になったホマレモンなどの重賞勝ち馬を送り出した。イチジヨウの仔で、クリフジの孫にあたるシモフサホマレは、1964年の安田記念を勝っている。
1959年、千葉県香取郡小見川町の菅谷長太郎に11万1000円という安値で買い受けられ、最後の産駒スガヤホマレを産み、1964年、旧25歳で生涯を終えた。
その血は今もつながれている。1994年のきさらぎ賞を勝ったサムソンビッグ、2008年春に岩手三冠競走の阿久利黒賞を勝ったリュウノツバサ、2011年の兵庫ダービーを無敗で制したオオエライジン、その妹で、同年のNAR(地方競馬全国協会)グランプリ2歳最優秀牝馬となったエンジェルツイートもクリフジの血を引いている。
クリフジ KURIFUJI
1940年3月12日生 牝 栗毛
- 父
- トウルヌソル
- 母
- 賢藤(父チヤペルブラムプトン)
- 馬主
- 栗林友二氏
- 調教師
- 尾形藤吉(東京)
- 生産牧場
- 下総御料牧場
- 通算成績
- 11戦11勝
- 総収得賞金
- 7万3200円
- 主な勝ち鞍
- 43京都農商省賞典4歳呼馬(菊花賞)/43阪神優駿牝馬(オークス)/43東京優駿競走(日本ダービー)
- 表彰歴等
- 84年顕彰馬に選出
- JRA賞受賞歴
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2020年9月号