story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 53
史上最少体重のグランプリホース
ドリームジャーニーの旅路
2020年6月号掲載
早くから頭角を現した2歳王者は、古馬となって春秋グランプリ制覇を果たした。
その活躍は、名種牡馬として名を馳せた父ステイゴールドや母、
そしてまだ知らぬ弟の命運をも切り開いた。
すべての写真を見る(8枚)
1年生種牡馬の近況を取材するため、いくつかの種馬場を回った2002年の夏、ブリーダーズ・スタリオン・ステーションに繋養されているステイゴールドの前で、事務局の秋山達也がこんな話をしてくれた。
「こんなに小柄な種牡馬がこれほどの人気を集めるなんて、以前にはとても考えられませんでした」
競走時代の馬体重は概ね430㌔前後。最少時には408㌔でレースを走ったこともあるステイゴールドは明らかに小さな馬だった。小柄な種牡馬からは華奢な体格の産駒が生まれやすく、生産者は二の足を踏む傾向が強い。ところが初年度の02年、ステイゴールドの種付け頭数は177頭に達し、ブリーダーズ・スタリオン・ステーションのレコード(当時)を記録した。
それほどの人気を博した背景には、サンデーサイレンスの直仔であること、悲願のG1制覇を果たした引退レース・香港ヴァーズの鮮やかな勝ちっぷりなど、いくつもの要因が挙げられた。「受胎確認後150万円、産駒出産後200万円」と設定された種付料もそのひとつである。
一方で“リーズナブル”といえた種付料には種牡馬としての立ち位置が示されてもいた。たとえば02年から種牡馬入りした同期生のうち、アグネスタキオンとテイエムオペラオーの種付料は500万円。要するにステイゴールドは、ハイクラスではなく「ミドルクラス」という位置づけの種牡馬だったのだ。
しかしステイゴールドはそんなスタート地点から次々に活躍馬を送り出し、大種牡馬への道を歩んでいく。その過程において非常に重要な役割を果たしたのが、産駒初のGIウイナー・ドリームジャーニーだった。
すべての写真を見る(8枚)
すべての写真を見る(8枚)
父のイメージと母の運命を
変えた2歳戦からの活躍
すべての写真を見る(8枚)
母のオリエンタルアート(その父メジロマックイーン)は中央で3勝を挙げ、準オープンまで進んだ馬。ただし3勝はダートの新馬戦と平場戦で記録、格上挑戦した重賞では大敗を繰り返し、お世辞にも「ハイクラス」とはいえない存在だった。02年7月の加古川特別(蛇足になるがこのレースには、のちにゴールドシップの母となるポイントフラッグも出走していた)を最後に引退が決まった同馬は翌春、種牡馬2年目を迎えたステイゴールドを配合され、生まれ故郷の白老ファームで繁殖入りした。
04年2月24日、オリエンタルアートが出産した牡馬は、初仔であることを割り引いても華奢な体つきをしていた。同期生のなかでは群を抜いて小さかったため、しばらく離乳を遅らせて成長を待ったものの、最終的には「これ以上、母親と一緒にしていても体は大きくならない」と判断され、離乳に踏み切ったという。
ただ、体は小さくても肝は据わっており、馴致などで未知の経験をさせられるときでも物怖じはしなかった。怪我や病気とも無縁で育ったこの仔馬はステイゴールド、メジロマックイーンを管理した池江泰郎の息子、池江泰寿(以下、池江)に預けられることが決まる。04年3月に厩舎を開業したばかりのトレーナーに「開業祝い」として預託を依頼したのは、社台スタリオンステーションの場長・角田修男である。
メジロマックイーン牝馬にステイゴールドという配合も、白老ファームの繁殖牝馬の配合責任者を務めている角田が決めた。ちょっとした遊び心も感じられる“池江配合”には後年、「黄金の配合」と熱い視線が注がれるが、その時点ではもちろん、誰もそんなことを知る由もない。
ドリームジャーニーと名付けられたオリエンタルアートの初仔は2歳9月、新潟の新馬戦でデビューを迎えた。初戦は圧倒的な人気を集めていた外国産馬デスコベルタを競り落として快勝、返す刀でオープン特別の芙蓉Sも差し切り、連勝を飾る。続く東京スポーツ杯2歳Sは道中の折り合いを欠いて3着に惜敗したものの、朝日杯フューチュリティSではポツンと離れた最後方から強襲。主戦の蛯名正義がディープインパクトになぞらえて、「軽く飛びましたね」と表現したほど豪快な追い込みを決める。当日の馬体重は416㌔。レース史上の最少体重優勝記録を35年ぶりに更新する“ちっちゃな2歳王者”の誕生だった。
ステイゴールドが引退レースでようやく射止めた頂点のタイトルを2歳戦でいきなり手にしたことで、“晩成タイプの種牡馬”と思われていた父のイメージは大きく塗り替わった。さらにもうひとつ、ドリームジャーニーがあのタイミングで出現したことは、別の観点からも重要な意味を持っていた。というのもその年の秋、母のオリエンタルアートは繁殖セールなどに上場する放出候補の1頭にリストアップされていたからだ。
オリエンタルアートの牝系を改めて振り返ると、母のエレクトロアートは中央で4勝を記録し、桜花賞にも駒を進めた(11着)が、重賞の舞台では通用しなかった馬。米国産馬の祖母グランマスティーヴンスの競走成績は12戦1勝で、子孫から目ぼしい大物は出ていない。ハイクラスな繁殖牝馬が続々と導入されてきた社台グループにあって、血統的な優先順位は相対的に下がっていた。
しかし新馬―芙蓉Sを連勝した時点でその話は消えた。プロテクトがかけられたオリエンタルアートには翌春、まずはディープインパクトが種付けされたものの受胎せず、ならばとステイゴールドが配合された。そんな紆余曲折を経て08年に誕生したのがオルフェーヴルである。2歳時からの活躍は父の前途を明るく照らしたばかりでなく、偉大な弟への“架け橋”にもなったわけだ。