story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 51
府中で二度煌いた閃光
エイシンフラッシュの瞬き
2020年4月号掲載
欧州の重厚な血統のイメージとは裏腹に、極限の上がりを繰り出した日本ダービー。
そして、レース後の象徴的なシーンもレースを彩った、天覧競馬の天皇賞。
GI勝利は2つながら、まばゆい輝きを放った現役生活を振り返る。
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名馬の足跡をたどっていると、軽い驚きに包まれることがある。
――えっ……この時点ではまだ、この程度の評価なの?
時おりそのように感じるのだ。
のちに日本ダービーを制するエイシンフラッシュは、2010年の3歳春、5戦3勝の戦歴を引っさげて皐月賞に駒を進めた。だが、ファンの評価は18頭中の11番人気に過ぎなかった。共に芝2000㍍を舞台とする、暮れのエリカ賞、年初の京成杯を連勝していたにもかかわらずだ。
“人気の盲点”となる実力馬はもちろん多い。ましてやこの時は中間に熱発していた。前哨戦の若葉ステークスを使えず、人気を余計に落としたのは確かだった。
だがそれでも、こうも思えてならないのだ。皐月賞でのこの人気は、同馬の持つイメージの一面を、やはり相応に照らし出していたのだと。
血統面の印象を拭えぬまま
スタートしたクラシック戦線
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06年11月、英国タタソールズの繁殖セリに2人の日本人が参加していた。獣医師と事務局スタッフ、共に社台ファームに働く職員だった。
この頃、欧州経済は好況のため、購買予定の繁殖牝馬は高騰してしまい、落札できなかった。すると2人は、見栄えのする別の馬に目を向けた。独セントレジャーなど重賞を4勝した彼女は、名をムーンレディといった。独の1000ギニーやオークスを勝った名牝がその祖母にいた。
受胎していたのはキングズベスト(その父キングマンボ)だ。英2000ギニーを制した同馬は、筋肉痛のため00年の英ダービーを回避すると、向かった愛ダービーで骨折に見舞われた。やむなくの引退後、種牡馬になったのは、2000ギニーの勝ちっぷりはもちろんだが、世界的名牝・アーバンシーを半姉に持つ血統背景も大きな理由だった。
結局、ムーンレディは30万ギニー(当時のレートで約7000万円)で社台ファームが落札した。そして来日後の翌07年3月27日、3番仔にあたる牡馬を無事に産み落とした。
「サンデーサイレンス系の、見慣れた品の良さとは違って、ヨーロッパ血統特有の重厚感に満ちた馬体に興味を惹かれましたね」
仔馬を知る社台ファームの1人がそんな述懐を残している。
育成・調教段階へ進むと、素軽い動きやハンドリングのしやすさが評判を呼んだ。09年7月のデビュー戦には阪神の芝1800㍍が選ばれた。15頭立ての6着と、のちのGI馬にすればひっそりした船出となったが、当初の予定どおり、早めに1度使ってピリッとさせた後は、成長を促すため再び放牧に出された。迎えた10月、エイシンフラッシュは2戦目の芝2000㍍を期待通りに勝ち上がったのだ。道中は馬群でじっと我慢し、前にできた壁の隙間を直線で抜け出すという味な内容だった。
続く萩Sは直線の不利もあって3着に敗れたものの、その先のエリカ賞と京成杯では、前を行く馬をとらえきって堂々の連勝を飾った。そして前述したように、熱発に見舞われはしたものの「まずまず満足のいく状態」(藤原英昭調教師)が整う中で皐月賞を迎えたのである。
11番人気でのGI初挑戦ながら、同馬は3着に健闘した。低評価の理由をあらためて探れば、「連勝したとはいえクビ・ハナの僅差だったこと」や「中間の熱発」、さらに「サンデー系有力馬との比較では切れ負けしてしまう」とのイメージが広がっていたこと、などをあげられる。血統面からの重厚な印象は、同馬から容易には去ろうとしなかった。
だが、そうした印象と評価は、続くダービーで一変する。7番人気ながら頂点に上り詰めた時、競走名に違わぬ末脚の“一閃”を私たちは確かに認めたのだ。同時にそれは、見たことのない“閃光”でもあった。
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