story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 48
テンよし、中よし、終いよし
テスコガビーが体現した理想
2019年12月号掲載
語り継がれる桜花賞
そして、牝馬二冠へ
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75年4月6日、桜花賞。テスコガビーは3枠7番にシード(単枠指定)された。キタノカチドキにつづく2頭めのシード馬となったテスコガビーの単勝は1・1倍(支持率72・4%)。レースはまさにひとり舞台で、杉本清の実況とともにいまも語り継がれている。
スタートしてすぐに先頭にたったテスコガビーは前半の800㍍を46秒2(当時としては速いペース)で飛ばして逃げた。追いかけてきた馬たちは3コーナーあたりから遅れはじめ、4コーナーをまわったときにはすでにセーフティリードを保っていた。直線に向いてスパートすると、さらに差を広げていく。
「うしろからはなんにも来ない!」と三度連呼した杉本が、名調子でゴールシーンを盛りあげる。
「赤の帽子ただひとつ、ぐんぐん、ぐんぐんゴールに向かう」
2着ジョーケンプトンには大差(1・7秒差)をつけ、優勝タイムは1分34秒9。スキップでもするような大楽勝で桜花賞レコードを書きかえてしまった。クラシックレースでの大差勝ちは顕彰馬にも選ばれているクリフジ(43年菊花賞、8頭立て)とトキツカゼ(47年オークス、6頭立て)しかいない。2頭の記録は戦中戦後の、競走馬の数が極端にすくなかった時代のものである。それを考えれば、テスコガビーの記録は比類ない大記録だといえる。この一戦だけでも、彼女は日本競馬史上最高の牝馬になったのである。
「恐れ入った、恐れ入りました」
ゴールした直後に杉本清が思わず口にする。見ていた人たちもおなじ気持ちだったろう。
桜花賞のあと仲住芳雄はそのままオークスに向かうつもりで調整していたが、テスコガビーはサンスポ賞4歳牝馬特別(現フローラステークス)に出走してくる。背景には馬主の長島忠雄の強い要望があった。
トライアルレースだというのに、東京競馬場には11万人もの入場者があった。そのなかで体調不十分のテスコガビーは3着に負けた。直線でテスコガビーをかわして突きはなすカバリダナーを、ゴール前で仲住厩舎のトウホーパールが首差競り負かしたシーンは、波乱を超えた“事件”でもあった。
体調が整わないまま走って負けたテスコガビーのダメージは思いのほか大きかった。肩や前脚に疲れがでて、立て直すまでに時間を要した。後年、仲住は「オークスではなんとか80%ぐらいまではこぎ着けた」と吐露している。
それでも、80%の力をだせればテスコガビーにはじゅうぶんだった。スタートからいくらか強引に先頭に立つと、レース中盤はペースを落としてしずかに折り合い、直線ではトライアルの鬱憤をはらすように独走した。まさに「テンよし、中よし、終いよし」のレースで、2着に8馬身の差をつけている。2着にはいったのはソシアルトウショウ。トウショウボーイの姉である。
圧倒的な強さで牝馬二冠を制したテスコガビーの表彰式には名前の由来になった少女も招かれ、馬に乗せてもらって記念写真におさまっている。
菅原泰夫はカブラヤオーで皐月賞とダービーに勝った。おなじ年に春のクラシックを完全制覇した騎手は日本の競馬史でひとりしかいない。
しかし、このあと脚を傷めて長い休養にはいったテスコガビーは、1年後にダートのオープン戦で復帰したが6着に敗れ、調教中にふたたび脚を痛めてしまった。それでも関係者は復活の望みを託してテスコガビーを明成牧場に送るのだが、77年1月19日、トレーニング中に心臓麻痺で倒れた。クラシックを戦った馬たちが牧場に戻ってこどもを産んだり、母になる準備をしていた、5歳の早春だった。
(文中敬称略)
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テスコガビー TESCO GABY
1972年4月14日生 牝 青毛
- 父
- テスコボーイ
- 母
- キタノリュウ(父モンタヴァル)
- 馬主
- 長島忠雄氏
- 調教師
- 仲住芳雄(東京)
- 生産牧場
- 福岡巌牧場
- 通算成績
- 10戦7勝
- 総収得賞金
- 1億3561万6000円
- 主な勝ち鞍
- 75オークス/75桜花賞/75阪神4歳牝馬特別/75京成杯/74京成杯3歳S
- JRA賞受賞歴
- 74優駿賞最優秀3歳牝馬/75優駿賞最優秀4歳牝馬
2019年12月号