story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 48
テンよし、中よし、終いよし
テスコガビーが体現した理想
2019年12月号掲載
牡馬と見まがうほどの雄大な馬格と軽快なフットワーク。
スピードの違いで後続に影を踏ませず、桜花賞、オークスの牝馬二冠を制した。
わずか10戦のキャリアを、風のように駆けたヒロインの姿に思いを馳せる。
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青鹿毛のテスコボーイ産駒はデビュー前から評判になっていた。調教師は美浦トレーニング・センターの仲住芳雄。デビュー戦を9馬身差で勝ち、京成杯3歳ステークス(現京王杯2歳S)では2着に6馬身の差をつけた。タケノダイヤという、その牝馬が好きだった。
テスコガビーの現役時代を知らないわたしは、プロフィールのよく似た天才少女に、あこがれの最強牝馬の姿を重ねながら見ていた。しかし、タケノダイヤはテスコガビーにはなれなかった。桜花賞は2番人気で4着、オークスは3番人気で16着に大敗している。
タケノダイヤがいた1981年のクラシック世代は、テスコガビーの75年世代によく似ていて、牝馬が強かった。桜花賞は「金襴緞子が泥にまみれて」(杉本清)のブロケードが4戦無敗で逃げきり、オークスは朝日杯3歳ステークス(現朝日杯FS)と京成杯で牡馬のトップクラスを一蹴したテンモンが勝った。オークス戦線ではカバリエリエースとエイティトウショウも人気を集めた。カバリエリエースの母はカバリダナー、エイティトウショウの母はソシアルトウショウである。
馬体がよくとも
買い手があらわれなかった
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テスコガビーは1972年4月14日に北海道静内町(現新ひだか町静内)の福岡巌牧場でうまれた。福岡牧場と牧場時代のテスコガビーについては福田喜久男(のちに『優駿』編集長)のレポート(『優駿』75年6月号「桜花賞馬のふるさと」)をもとに書いていく。
福岡家は明治中期に兵庫県淡路島からの入植で、巌は入植三代めになる。競走馬の生産に着手したのは60年だという。当初はアラブ馬が中心で、テスコガビーの母のキタノリュウ(父モンタヴァル)は福岡牧場で飼養する3頭めのサラブレッドの繁殖牝馬だった。25戦1勝という平凡な成績だった牝馬を世話してくれたのは、おなじ静内の稗田実(稗田牧場)だった。稗田は名種牡馬ファバージやオグリキャップの父ダンシングキャップなどを導入した慧眼の人である。キタノリュウは2年めにテスコボーイを種付けされてテスコガビーを、その2年後には公営南関東の東京大賞典などに勝ったトドロキヒリュウ(父クロケット。5歳になって中央入りして天皇賞にも出走した)を産んでいる。
キタノリュウとテスコボーイの娘は真っ黒な青毛で、だれが見てもすばらしい馬体をしていた。うまれた1か月半後にはテスコボーイの初年度産駒ランドプリンスが皐月賞に勝ったこともあり、何人かの調教師が馬を見にやってきた。しかし、馬体のよさを誉めてくれたが「女じゃなあ」と言って帰っていった。
うまれて3か月ほど経ったとき、たまたまとおりすがった馬商の目が放牧地にいるキタノリュウの娘にとまった。
「お母さん、りっぱな男馬がいるねえ」
「あれは牝馬ですよ」
応対した福岡の妻は言った。
「女かい。でも、いい馬だねえ。ほんとうにいい馬だ」
まだ買い手はきまってないと言うと、馬商は「東京で馬を探している人がいるから、話してみる」と色よい返事をしてくれた。
その数日後、馬商は東京競馬場の仲住芳雄調教師を連れて牧場にやってきた。テスコボーイの当歳だとしか聞いていなかった仲住は、馬を見た瞬間「いい男馬だな」と思った。牝馬だと教えられても、仲住は迷うことなくひきとることを決めた。
「この馬で桜花賞に行きますよ。かならず桜花賞に勝ちますから」
仲住は上機嫌に言った。