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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    三強での再戦を経て
    再び世界の舞台へ

    1969年天皇賞(春)●優勝:クラシック三強が顔を揃えた伝統の一戦。スローペースを折り合い、1番人気に応えて、前年の雪辱を果たした©JRA

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     天皇賞(春)。昨年のダービー以来の三強対決。1年が経過し、ライバル2頭も成長を遂げていたが、タケシバオーには遠く及ばなかった。

     レースは長距離戦特有のゆったりとしたペースで淡々と流れていく。タケシバオーは離れた3番手。それを見るようにアサカオー、マーチスが控える。これまでの三強対決と同じ構図でゴールを目指した。違ったのは一流馬から怪物へと変身したタケシバオーの自信だった。先に動けば2頭の餌食になる。そんな心配など忘れたかのように直線半ばで先頭に立つと、そのまま2着のアサカオーに2馬身の差をつけて悠々と勝利。ゴール前200㍍を推定10秒台で走り抜けた。その後、熱発で宝塚記念は自重し、7月、ジュライステークス(芝1800㍍)に出走。65㌔のハンデを克服して連勝を「6」にのばした。

     秋。タケシバオーに課せられたのはワシントンDCインターナショナル招待競走でのリベンジだった。今度こそ日本馬の実力を世界に知らしめる。

     それを目標に毎日王冠(ダート2100㍍)に出走、62㌔のハンデで勝利し、この時点で日本の競走馬で史上初の獲得賞金1億円を突破。さらに遠征前の壮行レース、英国フェア開催記念も生涯5度目のレコードタイムで勝利。3200㍍と1200㍍の重賞競走を制する離れ業を演じ、勇躍、アメリカへと渡った。

     しかし、現地到着後に体調を崩し、レース当日まで回復することはなかった。馬のためには出走させるべきではない。いや、日本の代表馬として選ばれた限りは出さないわけにはいかない。苦渋の選択を迫られた小畑は断腸の思いで後者を選択。タケシバオーも必死で走ったが、最下位でゴール。リベンジはならなかった。

     これを最後に彼は競走生活に終止符を打つことになるが、もしも完調で走っていれば…。いや、見果てぬ夢など見るのはよそう。それよりも半世紀前、距離の壁を楽々と超え、芝、ダートを問わず、ハンデをものともしなかった究極のオールラウンダー、タケシバオーという名馬がいたことだけは覚えておいてほしい。

    1969年ジュライステークス●優勝:宝塚記念を自重して臨んだ芝1800㍍戦。65㌔の斤量、不良馬場と悪条件をものともせず外から追い込み、他馬を力でねじ伏せた©JRA

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    1969年毎日王冠●優勝:ダート2100㍍戦は、7頭立てながら序盤は最後方を追走。勝負どころから一気に先行馬を飲み込んだ。この勝利で日本競馬史上初の「1億円ホース」に©JRA

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    1969年英国フェア開催記念●優勝:芝1200㍍戦を1分10秒4のレコード勝ち。国内のラストランとなった一戦を難なく突破し、2年連続でのアメリカ遠征に弾みを付けた©JRA

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    タケシバオー TAKESHIBA O

    1965年4月23日生 牡 鹿毛

    チャイナロック
    タカツナミ(父ヤシママンナ)
    馬主
    小畑正雄氏
    調教師
    三井末太郎(東京)
    生産者
    榊憲治氏
    通算成績
    29戦16勝(うち海外2戦0勝)
    総収得賞金
    1億1365万4200円
    主な勝ち鞍
    69天皇賞(春)/67朝日杯3歳S/69京都記念(春)/69毎日王冠/69東京新聞杯/英国フェア開催記念/68東京4歳S
    表彰歴等
    顕彰馬(04年選出)
    JRA賞受賞歴
    67年啓衆社賞最優秀3歳牡馬/69年啓衆社賞年度代表馬、最優秀5歳以上牡馬

    2019年11月号

    広見 直樹 NAOKI HIROMI

    1952年生まれ、東京都出身。早稲田大学を中退後、雑誌編集者、記者を経てフリーのライターとなる。著書に「風の伝説 ターフを駆け抜けた栄光と死」、「日本官僚史!」「傑作ノンフィクション集 競馬人」(共著)など。

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