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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 46

空前のハイペースで春の二冠制覇
カブラヤオーと狂気の逃げ

江面 弘也 KOYA EZURA

2019年10月号掲載

6月の遅生まれで、血統的にも注目されず買い手もつかなかった生い立ち。
その下馬評を覆すように、持ち前のスピードで皐月賞、ダービーを記録的なラップを刻んで逃げきった。
馬名のごとく、一目散に駆けた競走生活を振り返る。

    ©JRA

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     カブラヤオーが嫌いだった。

     一歳下のトウショウボーイで競馬ファンになったわたしは、ものの本で読んだり先輩からきかされたカブラヤオーの強さに嫉妬していたのだ。トウショウボーイはダービーで逃げて2着に負けたが、カブラヤオーはハイペースで逃げて二冠馬になった。それも悔しかった。だからあのころ、「カブラヤオーの世代はレベルが低かったが、トウショウボーイは最強世代の最強馬だ」と、詭弁まがいの言い方をよくしたものだ。

     しかし、元来が逃げ馬好きである。20年30年と競馬を見ているうちに思い知らされたのはカブラヤオーのすごさであり、おもしろさだった。とりわけ最近の、馬も人も格段にレベルアップした一方でじょうずに教育された競馬を見ていると、よりいっそうその思いが強くなる。

     だからはこれは、偉大な逃げ馬をまっすぐに見られなかった男の懺悔の稿でもある。

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    買い手が現れなかった
    「山からでてきたような馬」

     カブラヤオーは1972年6月13日に北海道新冠町の十勝育成牧場でうまれた。新冠にありながら牧場名が「十勝」なのは、牧場をつくったのが西塚十勝だからだ。西塚はカブラヤオーの妹ミスカブラヤ(エリザベス女王杯)の調教師でもある。

     十勝育成牧場は敷地面積約150㌶、60頭ほどの育成馬のほかに26頭の繁殖馬を飼養し、従業員も26人という大規模な牧場だった。ことしの春、ダービー関連の取材で会ったとき、カブラヤオーの主戦だった菅原泰夫は「小さな牧場でうまれて、パドックに1頭で放牧されていたから臆病になった」と話していたが、後述するように、厩舎にきたときの印象の悪さでそういう記憶がつくられたのだろうと思う。

     カブラヤオーの父ファラモンドはタニノムーティエなどをだしたムーティエとおなじシカンブル(フランスダービー)の産駒で、カブラヤオーは日本で5年めの世代になる。同世代には公営南関東の三冠馬ゴールデンリボーがいるが、東京ダービー馬4頭など地方競馬で多くの名馬をだした種牡馬である。

     母のカブラヤ(父ダラノーア)は6勝した活躍馬で、繁殖牝馬となって2頭めの産駒がカブラヤオーである。馬主の加藤よし子は繁殖牝馬を2頭所有していて、ともに十勝育成牧場に預けていた。72年は2頭ともこどもを産んだが、つづく2年は死産や不受胎でともに産駒がなく、加藤は経済的な理由で72年うまれの2頭を売ることにした。ところが、1頭はすぐに売れたのだが、カブラヤの息子は300万円でも買い手は現れなかった。地味な血統に加え、遅生まれで成長が遅かったのか、垢抜けしない馬体も敬遠された。

     しかたなく加藤が所有し、東京競馬場の茂木為二郎厩舎に預けられる。茂木厩舎には姉のカブラヤヒメがいたが、弟の馬房を空けるために金沢競馬に売られていった。厩舎にきたときの印象を菅原は「山からでてきたような馬」と言った。

    「不細工でね。でも、走らせるとよかった。能力はすごかったんだけど、馬が横にいると恐がってね」

     レースでも1頭で行けばおとなしく、騎手の言うことをきいてくれるのだが、ほかの馬のとなりに寄せると恐がってどうにもならなかった。

    「調教でもそう。落ちなかったのはおれだけ。内埒から外に飛んでいったりして、みんな落とされていた」

    カブラヤオーの代名詞は外連味のない逃げ。そしてその背中には、菅原泰夫騎手がいた©JRA

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