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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

未来に語り継ぎたい名馬物語 43

名門の名を継ぐ漆黒の豪傑
シンボリクリスエスの剛健さ

軍土門隼夫 HAYAO GUNDOMON

2019年6月号掲載

アメリカで生を受け、
3歳春にはダービーに挑戦。
涙をのんだが、その悔しさは糧となり、
天皇賞(秋)と有馬記念を連覇、
2年連続で年度代表馬にも輝いた。
国内外の名手を背に、
チャンピオンディスタンスの主役を張った
競走生活を辿る。

    ©M.Watabe

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     星や鼻白のない真っ黒な顔。いわゆる「ソックス」を履いた脚も、一本もない。隅から隅まで漆黒の馬体は豊かな筋肉の膨らみに満ちて、時に540㌔にも達した。加えてパドックで見せる、殺気にも似た気合。これほど、その凄みで見る者を圧倒した馬はそういない。その姿はまるで草食動物の群れに1頭だけ紛れ込んだ獰猛な肉食の恐竜のようだった。

     シンボリクリスエスが図抜けた能力を持つ競走馬だったことを示す記録や数字は、たくさん残っている。

     JRA史上2頭目にして、現在のところ最後の3歳馬による天皇賞(秋)制覇。その天皇賞(秋)の連覇は、まだ他に達成した馬は1頭もいない。

     有馬記念も連覇した。年度代表馬も、2年連続で受賞した。どちらも史上4頭目という快挙だった。

     ただ勝っただけではない。その内容も、どこかタガが外れていた。

     4歳時の天皇賞(秋)と有馬記念は、どちらもコースレコードだった。しかも有馬記念は、2着のリンカーンに9馬身という途方もない着差。あのオルフェーヴルの8馬身差を上回る、いまも有馬記念の最大着差だ。

     そんなシンボリクリスエスのことを語り継ごうとするときに、忘れてはならない事実が2つある。

     シンボリクリスエスは、あの「シンボリ」の馬だったということ。

     そしてシンボリクリスエスは、藤沢和雄厩舎の馬だったということだ。

    シンボリ牧場は時代に
    あわせて変わろうとしていた

    2002年青葉賞●優勝:重賞初挑戦、初勝利となった同レースは武豊騎手とのコンビ。中団追走から力強く抜け出し、日本ダービーへの挑戦権を獲得した©H.Watanabe

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    2002年日本ダービー●2着:岡部幸雄騎手を背に、外国産馬初のダービー制覇に挑んだが、その前に立ちはだかったのは、武豊騎手とタニノギムレットだった©M.Watabe

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     シンボリクリスエスは1999年1月21日、アメリカのケンタッキー州にあるミルリッジファームで生まれた。サーアイヴァーやジャコモなど数多くの名馬を生産し、ゴーンウェストやダイイシスといった大種牡馬を繋養してきた、古い歴史を持つアメリカきっての名門牧場だ。

     そのミルリッジファームのホームページに、代表的な生産馬の紹介コーナーがある。シンボリクリスエスもいて、そこには「長年の顧客である和田家のために育てた」とある。

     シンボリクリスエスの記録上の生産者は、母馬ティーケイの所有者である「Takahiro Wada」だ。シンボリ牧場3代目の和田孝弘氏が、種牡馬クリスエスの仔を宿した繁殖牝馬をアメリカで購入した。それを父の代から付き合いのあるミルリッジファームに預託し、生まれたシンボリクリスエスを2歳時に日本に連れてきた。そういうことだった。

     シンボリ牧場は戦前から続く名門牧場で、2代目の和田共弘氏は昭和を代表するホースマンだった。スピードシンボリ、シンボリルドルフ、シリウスシンボリ。オーナーブリーダーとして一時代を築くと同時に、共弘氏はヨーロッパの格式ある競馬を愛した。凱旋門賞挑戦のパイオニアとなり、現地でも生産活動を行った。孝弘氏によれば「ルドルフで儲けた金のほとんどをつぎ込んだ」といい、一時は牝馬と仔をあわせて100頭ほどをヨーロッパに持った。

     しかし息子の孝弘氏はヨーロッパではなく、アメリカに憧れていた。

     父の共弘氏が亡くなった94年、孝弘氏は初めてアメリカへ渡った。自分の目で見たアメリカ競馬は、ビジネスライクな馬の売買も含め、魅力的で刺激的だったという。そこからシンボリ牧場は急速に変わり始める。血統はアメリカ寄りに入れ替わり、経営的にもオーナーブリーダーに固執せず、マーケットブリーダーの活動とのバランスを取るようになる。

     折しも日本では外国産馬が勢いを増し、クラシックや天皇賞の外国産馬への開放も目前に迫っていた。そしてその本流はヨーロッパではなく、アメリカの血だった。

     結果はすぐに出た。孝弘氏が95年にアメリカで買った牝馬ゲーリックチューンはそのまま現地に預けられ、翌年にエーピーインディの仔を産んだ。それがのちに99年NHKマイルCを勝つシンボリインディだ。

     あの伝統のシンボリ牧場が時代にあわせて変わろうとしていた。当時、僕たちファンも、そんな激動の瞬間を目撃していることを意識していた。そしてシンボリクリスエスは、ある意味でその象徴のような馬だった。

     孝弘氏が、種牡馬クリスエスの仔を宿した牝馬ティーケイを30万ドルで買ったのは98年11月だった。シンボリインディのGI勝ちの半年前だ。

     ミルリッジファームで生まれて3カ月ほどのシンボリクリスエスを見た孝弘氏は「脚の長い、ひょろっとした馬だな」と思ったという。

     出産したティーケイは、すぐにキングマンボを種付けしてせり市に出され、26万ドルで売れた。そしてなんと、シンボリクリスエスも1年後、キーンランドの1歳セールに上場された。しかし40万ドルの希望価格にわずかに届かず、主取りになっている。もし売れていれば、シンボリクリスエスはどこか別の国で、別の名前で活躍することになっていたのだ。

     いずれにせよ、こうしてシンボリクリスエスは日本へやって来た。入厩先は、美浦の藤沢和雄厩舎だった。

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