story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 42
幻のまま、超光速で駆けた名血
アグネスタキオンの血筋
2019年4月号掲載
関係者は三冠を現実的な
目標として掲げた
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2000年。社台ファームで繁殖生活をおくっていたアグネスフローラの4頭めの産駒がダービーに優勝した。祖母と母につづくクラシック馬はアグネスフライト、その父はサンデーサイレンスである。
ダービー優勝の祝賀会のとき、17回めの騎乗で念願のダービーに勝った河内に、長浜が言った。「弟はフライトよりもすごいぞ」 弟のアグネスタキオンは兄とおなじサンデーサイレンス産駒だ。
ダービー馬よりもすごい馬って、いったいどんな馬なんだ――。
河内は思ったが、実際に乗ってみると、ほんとうに「ダービー馬よりもすごい馬」だった。
デビュー戦は12月2日の阪神、芝2000㍍だった。来年のクラシックをめざす素質馬が揃った新馬戦をアグネスタキオンは楽勝する。直線で抜けだし、2着に3馬身半の差をつけていた。
そして2戦めが12月23日のラジオたんぱ杯3歳ステークス(当時)である。1番人気のクロフネがNHKマイルカップとジャパンカップダート、2番人気のアグネスタキオンは皐月賞、3番人気のジャングルポケットがダービーとジャパンカップ。人気の3頭は翌年五つのGIに勝った。それほどレベルの高い一戦だったが、アグネスタキオンの力は一枚も二枚も上だった。早めに動いたクロフネを直線で楽にかわし、外から追い込んできたジャングルポケットに2馬身半の差をつけてゴールする。河内は鞭を使わなかった。
「とんでもない馬だ」と河内が興奮気味に言えば、いつも慎重な長浜も「三冠を狙える馬です」とマスコミに語った。この時点で、関係者は三冠を現実的な目標として掲げ、ファンもマスコミも、もちろんこの原稿を書いているわたしも、アグネスタキオンは三冠馬になり、シンザンやシンボリルドルフと並び称される名馬になると信じていた。
3歳になってもアグネスタキオンは強かった。不良馬場の弥生賞を5馬身差で勝ち、皐月賞も鞭を使うことなく2着のダンツフレームに1馬身半差をつけた。無敗のまま一冠めを突破したのだが、長浜も河内もタキオンらしい走りではないと感じていた。もっといい走りをする馬なのに、どこかがおかしかった。
母のきょうだいたちも、フライトとタキオンの兄姉も、脚元の不安で引退を余儀なくされてきたことがずっと長浜の頭のなかにあった。この一族をもっともよく知る男は、皐月賞のあともじゅうぶんすぎるほど脚に注意を払い、ケアもしてきた。しかし、皐月賞の17日後に恐れていたことが現実になる。左前肢の屈腱炎だった。ありあまる能力と相殺するかのように、偉大な曾祖母からずっとこの一族につきまとっていた悪魔がここでまた顔を覗かせたのだ。
わずか4戦で現役生活に終わりを告げ、種牡馬となったアグネスタキオンはその能力をこどもたちに伝えた。ダイワスカーレットをはじめ、ダービー馬ディープスカイなどの活躍馬をおくりだし、08年には中央競馬のリーディングサイヤーになった。しかし、国産の種牡馬としてはクモハタ以来51年ぶりという偉業をなしとげた翌年の6月、急死する。11歳、急性心不全だった。
アグネスタキオンの死から8年後、長浜博之が調教師を定年引退した。調教師人生をふりかえり、長浜にはひとつだけ悔いがあった。アグネスフローラが社台ファームに行ったことで折手牧場と疎遠になってしまったことだ。自分にはどうにもならないことであり、社台に行かなければフライトやタキオンに出会わなかったのだ。そう自分に言い聞かせてみても、忸怩たる思いがある。
「アグネス一族」の故郷、折手牧場では、イコマエイカンの孫で桜花賞(11着)を最後に引退したマークプロミスが一族の血を伝えている。マークプロミスの母は、繁殖馬として牧場に戻すという約束でグレイトファイターとおなじ勝負服(馬主・小山伸彦)で走ったヤングサリー。吉永猛厩舎にいた馬である。(文中敬称略)
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アグネスタキオン AGNES TACHYON
1998年4月13日生 牡 栗毛
- 父
- サンデーサイレンス
- 母
- アグネスフローラ(父ロイヤルスキー)
- 馬主
- 渡辺孝男氏
- 調教師
- 長浜博之(栗東)
- 生産牧場
- 社台ファーム
- 通算成績
- 4戦4勝
- 総収得賞金
- 2億2208万2000円
- 主な勝ち鞍
- 01皐月賞(GI)/01弥生賞(GⅡ)/00ラジオたんぱ杯3歳S(GⅢ)
- JRA賞受賞歴
- ―
2019年4月号