競馬場レースイメージ
競馬場イメージ
出走馬の様子
馬の横顔イメージ

story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    母アグネスフローラは無敗の
    5連勝で桜花賞馬に

    母アグネスフローラ:デビューから無敗で迎えた90年桜花賞を危なげない競馬で優勝。同年の最優秀4歳牝馬(当時)に選出された©JRA

    すべての写真を見る(7枚)

     一方、引退したアグネスレディーはイギリスに渡って名馬ミルリーフ(イギリスダービー、凱旋門賞など)を種付けし、折手牧場に帰って牡馬を産んだ。ミルグロリーという名前で長浜彦三郎厩舎にはいったこの馬は、競走馬としてデビューできずに種牡馬になっている。それからアグネスレディーは、いい仔がうまれても故障してしまったりで母ほどの活躍馬をだせないでいたが、6頭めにすばらしい牝馬を産んだ。アメリカの名マイラー、ロイヤルスキーを父とするアグネスフローラで、栗東の長浜博之厩舎に預けられた。

     長浜は二世調教師だが、最初は競馬の仕事をするつもりはなく、中京大学ではラグビー選手として活躍していた。競馬社会に入ったのは偶然だった。大学を卒業したあと「腰掛けのつもり」で父の厩舎で仕事をしているうちに、馬に乗るのが楽しくなり、いつの間にか10年が過ぎ、父をサポートする調教助手になり、88年に調教師試験に合格した。その年の夏に父が肝臓癌で亡くなり、長浜はそのまま厩舎を引き継いだ。

     ちなみに、アグネスフローラの厩務員、大川鉄雄は中京大学ラグビー部で、長浜の一年後輩だった男である。厩舎に遊びにきて馬の仕事に興味をもった大川はアグネスレディーの担当でもあり、フライト、タキオン兄弟の世話もすることになる。「母仔三代のクラシック優勝」をなしとげたのは、馬主と騎手と厩務員がおなじで、調教師が父子という奇跡のチームだった。

     数々の名馬に乗ってきた河内洋にもアグネスフローラはとくべつな馬だった。“牝馬三冠”のメジロラモーヌと比較して「安定感では一枚上」と河内も評価するように、無敗の5連勝で桜花賞馬になった。しかし、オークスはレース中に左前肢を骨折して2着に敗れる。さいわい骨折は軽くすんだが、秋になって屈腱炎を発症し引退が決まった。繁殖牝馬になったのは故郷の折手牧場ではなく千歳市の社台ファームだった。

     アグネスフローラに惚れこんでいた社台ファームの吉田照哉は、オークス当日に渡辺孝男のところに出向いて「もし売ることがあったら、うちに売ってください」と訴えている。大一番の前にトレードの話をするのはスポーツビジネスの世界ではめずらしくないことでも、ある意味失礼であり、大胆な行為である。しかし、これが「アグネス一族」の運命を変える。フローラの引退を決めたとき、吉田照哉の熱意に気持ちを動かされた渡辺が社台ファームに預託を依頼するのだ。もちろん、馬を売ることはなかった。

    2000年ラジオたんぱ杯3歳S●優勝:重賞に挑んだ2戦目は今なお語り継がれるマッチアップ。ジャングルポケット、クロフネの“三強“の様相を呈したが、結果はアグネスタキオンの独壇場だった©Y.Muragishi

    すべての写真を見る(7枚)

    02
    03