story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 40
比類なき末脚の持ち主。
ハープスターの挑戦
2019年1月号掲載
新潟2歳Sで圧倒的なパフォーマンスを披露し、瞬く間に脚光を浴びる。そして、同年暮れの阪神ジュベナイルフィリーズでは、僅差の2着に敗れるも翌春の桜花賞を見事に勝利し、鬱憤を晴らしてみせた。その後は古馬や海外のビッグレースに果敢に挑んだハープスターの現役時代を振り返る。
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ノーザンファーム早来で、牝馬厩舎の調教主任を務める日下和博にとって、ハープスターの血統は、自身のホースマン人生を語る際の「略歴」ともなる。
日下が当時の社台ファーム早来(現在のノーザンファーム)に入社して間も無い頃、初めて跨がったGⅠ馬が、ハープスターの祖母であるベガだった。
「ベガに騎乗していた頃は、乗り味の良さなど全く分かっていませんでした。ただ、生まれて初めて競馬場で見たGⅠがオークスであり、脚が曲がっていて、競走馬になれないかもと言われていた馬が、GⅠを勝てた衝撃は今でも忘れられません」
誰の目にも分かるほどに左前肢が内向していたベガだったが、それを補えるだけの柔軟な走りで、卓越した競走能力を証明していく。デビュー2戦目に勝ち上がってからは、チューリップ賞に続き、桜花賞も優勝。日下の目の前でオークスも制して牝馬二冠を達成した。
エリザベス女王杯で3着に敗れた後は勝ち鞍に恵まれず、4歳時の宝塚記念の後に左前肢第一指骨の骨折が判明すると現役を引退。ノーザンファームで繁殖入りし、初仔から日本ダービー馬のアドマイヤベガを送り出す。そのほか、アドマイヤボス、アドマイヤドンといった、ベガの子供たちにも日下は騎乗してきた。
その後、牝馬の育成厩舎へと移った日下の下に、ベガが初めて牝馬を誕生させたとの知らせが届く。後に、ヒストリックスターと名付けられた馬だが、幼少時の怪我の影響からデビューを果たすこと無く、早々に繁殖入りとなった。
「引退は残念でしたが、いつか、自分の厩舎でヒストリックスターの子供を手がけたいと思えるようになりました。それだけに、ハープスターが自分の厩舎に来ると分かった時はワクワクしました」
育成の時点における期待値は
あの「名牝」を遥かに上回っていた
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ベガの背中に跨がってから約20年。その時、牝馬厩舎の厩舎長を任されていた日下は、その血脈との邂逅を果たす。
母ヒストリックスターにとって3番仔となるハープスターは、2011年4月24日にノーザンファームで生を受けた。父ディープインパクトや、その産駒たちにも数多く跨がってきた日下だったが、育成厩舎に来たハープスターの姿は、父の産駒どころか、ベガの面影も感じさせないような、コロンとした体形をしていた。
「馬体からすると、母の父であるファルブラヴが強く出ているのかなと思いました。ただ、動きの機敏さはディープインパクトであり、歩様の柔らかさはアドマイヤベガとそっくりでした」
騎乗調教へ移行し、日下の期待が確信に変わった。ハープスターは、まるでバランスボールの上かと錯覚させるほどの弾むような動きで、軽々と屋内坂路を駆け上がっていった。
それまで、日下の中での「名牝」と言えば、天皇賞(秋)で牡馬を一蹴したエアグルーヴであり、ジャパンCで世界の名馬を退けたブエナビスタだった。日下厩舎で育成されていたブエナビスタもまた、育成の過程から能力の高さを感じさせていたが、その時点における期待値は、ハープスターが遙かに上回っていた。
「ただ、当時のハープスターはマイラーだとも思っていました。管理をしてくれた松田(博資)先生にもそう伝えましたが、入厩後に『マツパク流』と言われる調教を施されたからこそ、距離の壁を克服できたのかも知れません」
日本競馬の調教を変えた坂路調教。しかしながら、祖母のベガやブエナビスタも手がけていた松田厩舎では、主にウッドチップコースを用いながら、長めの距離を乗り込む調教を主体としていた。
その『マツパク流』の調教で、距離の不安を払拭するような活躍を残したのが、ジャパンCを制したアドマイヤムーンと言えるだろう。そして、ハープスターもまた、マイルからクラシックディスタンスへと距離適性を広げていった。
マイラーだという日下の進言もあり、芝の1400㍍で行われたメイクデビュー中京を快勝したハープスターは、新潟2歳Sへ出走する。ゲートが開くとポジションを下げていき、道中では最後方からの追走を余儀無くされるが、それは衝撃的なパフォーマンスのプレリュードでしか無かった。
新潟競馬場の外回り658・7㍍という長い直線を、馬群の真ん中に進路を取ったハープスターは、鞍上の川田将雅騎手のゴーサインに応えると、弾むような末脚を爆発させていく。前にいたはずの17頭を並ぶ間も無く交わし、後に皐月賞馬となるイスラボニータにも、3馬身差を付けてゴール板を駆け抜けた。
新潟2歳Sの快勝もあり、単勝1・7倍の支持を集めた阪神ジュベナイルフィリーズ。縦長となったレースは最後の直線で馬群がばらける中、後方に待機していたハープスターは、その間を縫うように末脚を伸ばして行く。ゴール前では先に抜け出したレッドリヴェール、フォーエバーモアと横並びになるも、ハナ差だけ先に抜け出していたのはレッドリヴェールだった。
3歳初戦のチューリップ賞を快勝して、臨んだ桜花賞。前日から応援に向かっていた日下にとっては、捲土重来を期して臨んだレースともなった。
「阪神ジュベナイルフィリーズの後からずっと悔しさが残っていました。ホテルにチェックインしてからも、そのことばかりが頭をよぎり続け、結局、一睡もできませんでした」
大外18番枠からのスタートとなったハープスターは、ゲートが開くやいなや、最後方へとポジションを下げていく。先手を奪ったのはフクノドリーム。かつての、「魔の桜花賞ペース」を想起させる厳しい流れを自ら作り上げるように、最初の1000㍍を57秒フラットで入っていくと、後続との差を更に広げていく。
直線に入った時ですら、フクノドリームと2番手以下の集団の差は10馬身近くはあった。その時日下は、先行したクィーンスプマンテとテイエムプリキュアの2頭がそのまま残った、ブエナビスタのエリザベス女王杯が脳裏をよぎったという。
その嫌な思い出や、阪神ジュベナイルフィリーズの悔しさを一掃するような、衝撃的な末脚だった。残り100㍍で後続の馬群がフクノドリームを飲み込んでいくと、その中から抜け出してきたのは、レッドリヴェールとヌーヴォレコルト。普通ならば、2頭のどちらかで決まっていたに違いない。しかし、誰も見たことの無いような末脚で一気に交わし去っていったのは、ハープスターだった。
上がり3ハロンのタイムはメンバー中最速となる32秒9。勝ち時計は当時の桜花賞レコードタイとなる1分33秒3。そのレース内容だけでなく、時計面からも、ハープスターが歴代最強クラスの桜花賞馬であることを証明したレースとなった。
そして、祖母ベガと並ぶ二冠制覇がかかったオークス。この頃には凱旋門賞挑戦が現実味を帯び、ファンもまた、壮大なる目標に花を添えるべく、単勝1・3倍の1番人気にハープスターを支持した。だが、最後の直線で左前肢の蹄鉄が外れかけた影響もあったのか、先に抜け出したヌーヴォレコルトを交わしきれずに、クビ差の2着に敗れた。
レース後に、ノーザンファームの吉田勝已代表から、凱旋門賞への挑戦が正式に発表。そのステップレースとして札幌記念を使うことも明らかとなったハープスターは、再び牧場へと戻った。だが、それからレースまでの数週間は、日下にとっては辛苦の時間でもあった。