story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 37
いまなお心をときめかせてくれる名馬。
記憶の中のマルゼンスキー
2018年9月号掲載
新馬戦で2着馬に2秒の大差
この瞬間から異次元伝説は始まった
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76年秋。馬主の橋本とともにキーンランドセールに参加、マルゼンスキーの母馬購入に一役買った関東の調教師、本郷重彦に預けられ競走馬として第一歩を踏み出した。騎手は中野渡清一。デビュー16年目。68年のオークスをルピナスで勝利していたものの、どちらかといえば地味なジョッキーだったが、この出会いで彼の名は一躍全国へと広がっていくことになる。
10月。陣営は脚の不安を抱えていたマルゼンスキーの様子を見ながら、できるだけ慎重に負担を軽くした調教を積み、新馬戦に臨んだ。
それでも勝てるだろう。鞍上の中野渡は思っていた。ただし、それは確信と言えるほど強い思いではなかった。能力の違いで何とか勝つことができる。そんな程度のものだった。
世界的名馬の子供。ファンは当然のことのように1番人気に支持した。
独走。スタート直後から先頭を奪ったマルゼンスキーに抵抗できるライバルはいなかった。2着馬に2秒の大差をつけゴール。この瞬間から彼の異次元伝説は始まった。
次走の条件戦も9馬身差の圧勝で走り抜けると、その計り知れない実力を疑う者はいなくなった。しかし、3戦目、彼にとっては最初で最後の苦戦を強いられることになる。
11月に行われた「府中3歳ステークス」(当時のレース名で年齢表記は当時のもの、以下同)。北海道でデビューし、勝ち上がってきた“骨っぽい”ライバルが出走してきた。「北海道3歳ステークス」をレコード勝ちしたヒシスピード。マルゼンスキーの力を推し量る物差しと目された。それでも単勝1・1倍。ヒシスピードは6・7倍。ファンはあっさりとマルゼンスキーに軍配を上げた。
わずか5頭立てと少頭数のレース。先頭には立たず、悠然と流れに乗り、直線で一気に突き放す。そんな横綱相撲で連勝記録を伸ばす。これが陣営の描いた青写真だった。実際、思い通りの展開でゴールを目指したが、直線半ばで急追してきたヒシスピードに並びかけられるという予想外の出来事に場内は騒然とした。レースは2頭が壮絶な競り合いを演じながら最終盤に入った。
この様子に驚いたのはファンだけではない。鞍上の中野渡も慌てふためいた。はじめて愛馬を力いっぱい追い、鞭を振るい奮起を促した。一方、これまで自分の思い通りに走ってきたマルゼンスキーも突然の相棒からの“叱咤”に驚き、戸惑い、その走りはスムーズさを欠いた。そして2頭は、ほとんど並んでフィニッシュ。マルゼンスキーには無縁だとも思われた写真判定に持ち込まれた。結果、ハナ差で勝利したが、これを機に、他の馬同様、レース前にはしっかりと負荷をかけた調教をし、完璧に仕上げて臨む。こんな当然のことを陣営は彼に課すことにした。
そして迎えた「朝日杯3歳ステークス」。この年デビューした関東所属馬の頂点の座を争う大一番(関西には「阪神3歳ステークス」というレースがあった)。マルゼンスキーは完璧に仕上げられて登場した。ヒシスピードとの再戦も話題になったが、それ以上に彼を全力で走らせる。これが中野渡に与えられた指令だった。
楽々と先手を取ったマルゼンスキーに中野渡は道中で“遊ぶ”ことを許さなかった。そして真剣に走らせた結果、それまでのレースレコードを更新、2着のヒシスピードに2秒2、実に15馬身近い差をつけ楽勝。その実力を遺憾なく見せつけ、デビューの年を終えた。
この後、引退後のシンジケート(一口500万円で50口)も組まれ、合わせて来年以降のスケジュールが発表された。有馬記念までは日本で走らせ、それから海外遠征へ―。
いまにして思えば、この単純明快なプランの中にクラシックレースの名はなく、日本での最大目標が一年の掉尾を飾る有馬記念としか記せない。この時代の持込馬ゆえの宿命を感じざるを得ない。
いずれにしても、4戦4勝の成績で最優秀2歳牡馬に選出されたマルゼンスキーは、国内で走る最後の年を迎えた。
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