story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 34
瞬く間に確立した“絶対王政”。
キングカメハメハの魅力
2018年6月号掲載
3歳春、中央競馬へ移籍2年目の安藤勝己騎手を背に、世代の主役へ一気に躍り出たキングカメハメハ。しかしながら、同年秋に故障を発症、惜しまれながら引退した。短い競走生活ながらも、圧倒的な存在感を示した同馬の現役時代を振り返る。
キングカメハメハだけが持っていた
スペシャル感の正体は何だったのか
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ルックスに特別な派手さはない。サラブレッドで最も多い鹿毛で、流星も、脚の白もない。デビューから引退まで一年足らず。キャリアはわずかに8戦。それでも、キングカメハメハの走りには、私たちの目を惹きつける特別な力があった。それは、翌年無敗の三冠馬となったディープインパクトとも、その2年後に牝馬のダービー馬となったウオッカとも種類の異なるものだった。
キングカメハメハだけが持っていたスペシャル感の正体は何だったのだろう。
キングカメハメハは「持ち込み馬」だった。母マンファスは、米国キーンランドのノベンバーセールでノーザンファームの吉田勝已代表によって購入され、キングマンボの仔を受胎して輸入された。そうして2001年3月20日に生まれたのがキングカメハメハだった。
その年のセレクトセール当歳で、下見の段階から「芯の強いものを感じた」という金子真人オーナーにより7800万円(税別)で落札された。セールでは10番目に高い落札額だった。
育成馬時代も目立った動きはしていなかったらしく、いわゆる「評判馬」ではなかった。
にもかかわらず、管理者となった松田国英調教師は、入厩してその姿を見るや、すぐオーナーに「この馬は走ります」と報告したという。
実際に調教をしてみると、坂路ではあまり時計が出なかった。そこで、芝コースで最後だけ伸ばす調教をしたところ素晴らしい走りをし、松田調教師は自身の見方が正しかったことを再認識した。
デビュー戦は、03年11月16日、京都芝外回り1800㍍の2歳新馬戦。
スタート後、安藤勝己騎手(当時、以下同)に軽く促され、道中は6番手。直線入口で他馬に前をカットされたが動じることなく、鞍上の鞭に応えて半馬身差の勝利をおさめた。
2戦目は翌月、12月13日、阪神芝内回り2000㍍のエリカ賞。武豊騎手を背に、前走同様好位につけた。3コーナーから鞍上の手が動き、直線でスパートする。ラスト200㍍地点で手前を右に戻すなど、ギクシャクしたところもあったが、ここもきっちり半馬身差で勝ち切った。
武騎手は、のちに「いい馬だとは思いましたが、あの段階では正直、そんなに強いとは思わなかった」と話している。まだあまり競馬が上手ではなかったようだ。
3歳になった04年、年明け初戦は中山芝2000㍍の京成杯だった。ダリオ・バルジュー騎手の手綱で抜け出しをはかったが、前をとらえることができず3着に終わった。
レース終了後、松田調教師は金子オーナーと協議し、ごちゃついたり、外を回らされたりしては勝てない中山の皐月賞をパスし、NHKマイルCから日本ダービーというローテーションを進むことに決めた。01年にクロフネが1着―5着、02年にタニノギムレットが3着―1着と、厩舎の先輩たちが通ったのと同じ「変則二冠」である。
しかし、それら2頭はどちらも夏以降に屈腱炎を発症し、現役を退くことになった。ともにタフなレースであることに加え、中2週と間隔の短いローテーションが負担をかけたのではないか、という批判の声も一部にはあった。
だが、松田調教師に迷いはなかった。
距離の異なる大レースを制すことによって、種牡馬としての価値が上がる――という確たる考えがあったからだ。
「NHKマイルCからダービーという使い方は、ぼくのプランというより金子真人さんのプランなんです。ダービーの前に使うのなら、皐月賞よりもNHKマイルCのほうが価値がある、という考えを、金子さんは以前からあたためていたらしいんです。それがちょうど、ぼくのやりたいことでもあった、ということです」
07年の本誌のインタビューでそう話した。
また、長い向正面の直線を走ってからコーナーを回る東京芝1600㍍で競馬を覚えることが、多頭数が殺到するダービーの1コーナーをクリアするうえでプラスになる、というのも持論だ。
考えてみれば、マイルの次に2400㍍を走るのは特に変わったことではない。桜花賞からオークスがそうだし、日本がクラシック体系を整備するにあたって範としたイギリスでは、一冠目の2000ギニーはマイルで、二冠目のダービーは2400㍍で行われている(レース間隔はもっと余裕があるが)。