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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    タフなローテーションをこなして、
    有馬記念の勝利をもぎ取る

    同馬の鞍上はM.デムーロ騎手の他、武豊騎手、岩田康誠騎手、M.ギュイヨン騎手の4人が務めた©H.Ota

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    有馬記念では1番枠から道中は好位に位置し、直線入口で先頭に立つ強気なレース運びを見せる。ゴール前はハナ差まで迫られるも、僅差で勝利を物にした©Y.Hamano

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     ヴィクトワールピサは、吉田善哉氏が存命だった頃から社台ファームのクライアントだった市川義美氏の所有馬となり、角居勝彦厩舎に入厩した。大阪で生まれ大阪に住む市川オーナーだったが、栗東だけでなく美浦も含めて、複数の厩舎に馬を預けていた。だが、角居調教師に所有馬を委ねるのはそれが初めてだった。馬主会の会合でたまたま席が隣同士になったことでつながりが出来、「縁がありましたら、よろしくお願いします」と言って別れた角居調教師のもとに、市川オーナーから「こんな馬がいるのだが」と連絡が入ったのだ。

     角居調教師が初めてヴィクトワールピサを見たのは、同馬が1歳の夏を迎えた時期で、骨量があって馬格があるのに手先が軽い、素晴らしい馬との印象を持ったという。同時に、GⅠ馬の弟という良血で、なおかつ馬体もこれだけ良い馬を、少し前まで面識もなかった自分に託してくれた、市川オーナーの肝の太さに驚嘆したそうだ。

     ヴィクトワールピサのデビュー戦となったのは、09年10月25日に京都で行われた距離1800㍍の新馬戦だった。調教で抜群の動きを見せていた同馬を、敢えて相手の強いところでデビューさせようという意図が、陣営にはあったという。武豊騎手が騎乗したヴィクトワールピサは、2着に惜敗した。勝ったのは、ここを皮切りにGⅠ朝日杯FSまで無敗の3連勝で駆け抜け、最優秀2歳牡馬のタイトルを手にしたローズキングダムだった。

     2週間後に京都で行われた2000㍍の未勝利戦で初勝利を挙げて、ヴィクトワールピサの快進撃はスタートした。11月28日の京都2歳S(芝2000㍍)も白星で通過すると、次走は12月26日に阪神で行われたGⅢラジオNIKKEI杯2歳S(芝2000㍍)に駒を進めた。現在は中山を舞台に行われているGⅠホープフルSの前身となったレースである。完全に、翌年のクラシックを意識したローテーションだった。ラジオNIKKEI杯2歳Sで重賞初制覇を果したヴィクトワールピサの3歳初戦となった、3月7日に中山で行われたGⅡ弥生賞(芝2000㍍)は、同馬が初めて経験する重馬場になったが、重馬場のダービーを完勝しているネオユニヴァースの仔にはむしろ好ましい状態だったようで、ヴィクトワールピサは三冠初戦と同コース・同距離で施行された一戦を快勝。4連勝で皐月賞を迎えることになった。

     クラシック制覇へ向けて一分の隙もなく準備を進めてきた陣営にとって、予期せぬ事態が起きたのが、皐月賞を3週間後に控えた3月27日のことだった。デビューからここまでヴィクトワールピサの手綱をとってきた武豊騎手が、レース中に落馬。8月初めまで4カ月余りにわたって戦列を離れることになったのだ。代役として白羽の矢が立ったのは、デビュー前の調教で同馬に跨ったことがあった岩田康誠騎手だった。岩田騎手を背にしたヴィクトワールピサは、皐月賞を完勝。89年に馬主免許を取得した市川義美オーナーにとって、22年目にして初めて巡り合ったGⅠ勝利となった。

     この年の皐月賞は、2着が翌年に天皇賞(春)を勝つヒルノダムールで、3着が次走GⅠ日本ダービーを勝つエイシンフラッシュ、4着がこの年の秋にジャパンCを勝つローズキングダムだったから、力量のある馬たちが存分に能力を発揮した、レベルの高い一戦であった。

     日本ダービーでは3着に敗れたものの、3歳秋のヴィクトワールピサは、登録を済ませていた凱旋門賞を目指して、仏国に遠征をした。シーザリオで05年のアメリカンオークスを、ハットトリックで05年の香港マイルを、デルタブルースで06年のメルボルンCを制していた他、技術調教師時代にエアシャカールの“キングジョージ”遠征に帯同した経験のあった角居調教師だったが、仏国に馬を連れて行くのはこれが初めてだった。

     仏国ではパスカル・バリー厩舎を拠点に調整されたヴィクトワールピサだったが、ニエル賞4着、凱旋門賞7着と、不本意な結果に終わった。

     主たる敗因は距離にあったというのが、後に施された分析だ。帰国後にGⅠ有馬記念を制しており、2400㍍という距離も守備範囲にはあったが、日本ダービーから仏国における2戦を見ると、結局のところ2000㍍が、ヴィクトワールピサという競走馬にとっての最適距離だったようだ。

     欧州で2戦し、帰国後にジャパンC、有馬記念を連戦するというのは、相当にタフなローテーションだが、これをこなした上に有馬記念では勝利までもぎ取ったヴィクトワールピサの頑健さは特筆ものだし、これを可能にした角居厩舎のチーム力も極めて高い水準にあると言えよう。

     そして、3歳最終戦となった有馬記念が、ミルコ・デムーロ騎手がヴィクトワールピサとコンビを組んだ初めての機会となった。

     4歳初戦となったGⅡ中山記念もデムーロ騎手を背に完勝したヴィクトワールピサが、次なる“標的”としたのが、G1ドバイワールドCだった。

     96年に創設されたドバイワールドCは、01年に2着となったトゥザヴィクトリーを唯一の好走例にして、日本の強者たちがことごとく跳ね返されてきた厚い壁だった。だが、10年にメイダン競馬場が完成し、路面が従来のダートからタペタというブランドのオールウェザー(AW)に変わったことで、戦いの様相は変わろうとしていた。08年秋、プロライドというブランドのオールウェザー素材が敷設されたサンタアニタで行われたG1BCクラシックで、レイヴンズパス、ヘンリーザナヴィゲイターという欧州からの遠征馬が、1・2着を独占していた。10年3月には、開場まもないメイダンで行われたG2アルマクトゥームチャレンジ・ラウンド3(AW2000㍍)を、日本から遠征したGⅠ秋華賞(芝2000㍍)勝ち馬レッドディザイアが制していた。すなわち、芝馬でもこなせるのがオールウェザートラックで、そうであるならば、2000㍍という最適距離で賞金も高額なドバイワールドCは、ヴィクトワールピサにとってはむしろ狙って当たり前の一戦であった。

     ブエナビスタ、トランセンド、ルーラーシップの3頭とともに、ヴィクトワールピサは3月10日に現地入りをした。日本を未曾有の大惨事が襲ったのは、その翌日のことだった。

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