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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    GⅠでこれまでになく行きたがり
    初めての“苦戦”を経験

    ミホノブルボン1994引退式
    1994引退式©H.Imai/JRA

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     不遇といえた騎手生活に見切りをつけ、新たな道への転身を考えるようになった戸山為夫が、調教師免許を取得したのは64年3月だった。このとき、「練習量が成績に直結するのはスポーツ選手も馬も同じ。自分が調教師になったら調教の量をもっと増やしたい」という戸山の抱負に賛同。開業に必要な頭数を厩舎に預けてくれたのがオーナー・ブリーダーの谷水信夫である。

     4年後の68年には早くも谷水の所有馬タニノハローモアでダービーに優勝。ただし三強と呼ばれたライバル(マーチス、タケシバオー、アサカオー)が牽制しあうのを尻目に、逃げの奇策を実らせて掴んだこの勝利は、調教師としては心から喜べるものではなかったという。

     タニノハローモアが2歳のとき、戸山は通常よりも馬場を半周多く走らせる調教を取り入れた。しかし馬は体調を崩してしまい、冒険的な試みは頓挫。それでもダービーを勝てたのはカントリー牧場の整った環境で馬を逞しく育てた「谷水さんの功績」と彼は考えた。自分の調教理念に基づいて鍛えた馬、それも奇襲ではなく、圧倒的な走りで大レースを勝つ馬を送り出すことが以降の念願となる。

     調教理念といえば「スピードは天分だが、スタミナは努力でカバーできる」というのが彼の信念だった。高馬や良血馬とは縁が薄い自分の厩舎の戦力で成績を残すためには人一倍の努力──つまりハードな調教が必要だと考えた。運動生理学にも関心が深かった戸山は、平地のトラックしか調教馬場が存在しなかった時代にインターバル・トレーニングに取り組むなど、試行錯誤を重ねていく。

     85年12月、栗東トレセンにオープンした坂路コースはそんなトレーナーにとって、まさに「理想の調教施設」といえた。坂を駆け上がった後、歩いて出発点へ戻るうちに息が入り、そこで再び坂を駆け上がる坂路調教の流れはインターバル・トレーニングそのもの。クッション性の高い路盤材(ウッドチップ)のおかげで故障のリスクも低いから、思う存分に馬を鍛えることができる。

     ひと握りの人馬しか利用していなかった時代から坂路調教に取り組み、まったく新しい調教方法のノウハウの習得に努めてきた経験は、後にアドバンテージとして発揮された。坂路調教馬の活躍が目立ち始めたのはコースの全長が394㍍から710㍍に延伸された87年暮れ以降、正確には88年の春頃からで、これと歩調を合わせて厩舎の成績も上向いていく。結果が出ればすぐに追随者が溢れる世界のこと。88年2月には僅か60頭程度に過ぎなかった1日平均の入場頭数は、91年には500頭にまで増加した。

     その91年のはじめ、戸山は食道癌の摘出手術を受けた。進行の速い癌だったが手術は無事に成功し、彼は春先に現場へ復帰。ちょうどその頃、栗東へ入厩してきたのがミホノブルボンである。

     デビュー前の追い切りで、古馬のオープン馬でも滅多に出せない破格の時計(29秒9。当時の計測距離は500㍍)をマーク。一躍、脚光を集めたミホノブルボンは9月、中京の新馬戦(芝1000㍍)に臨んだ。スタート直後に挟まれて後退、残り600㍍地点では逃げ馬に大差をつけられていたレースだが、そこから強烈な末脚を繰り出してレコードV。2戦目の平場戦(東京・芝1600㍍)では2番手追走から早めに抜け出すと、ほとんど追われる場面がないまま、6馬身差の圧勝を飾った。

     迎えた3戦目がこの年から東西統一の2歳王者決定戦に新装された朝日杯3歳S。ミホノブルボンはここで初めての“苦戦”を経験する。騎手の小島貞博は前走と同様、2番手に控えようとしたものの、これまでになく行きたがった馬との呼吸がなかなか合わない。緩みのない流れでレースが進むなか、あからさまに折り合いを欠いている人馬。完全に負けパターンと思えたが、それでもミホノブルボンはヤマニンミラクルの猛追をハナ差に封じて無傷の戴冠を果たす。

     この一戦を境に戸山からは「本質的にこの馬はスプリンター」との発言が何度も飛び出すようになった。ただ、その言葉の真意は奥深いところにあった。
    「1日2、3本」が標準的なメニューとされていた当時、ミホノブルボンは2歳時から「1日4本」のメニューを消化した。もちろんそれは体調を見定めてのことで、要するにこの馬は戸山が課すハードな調教をこなせるだけの体力、器の大きさに恵まれていたのだ。

     そんな馬との出会いをずっと待ちわびていた戸山にすれば、調教師人生の正念場を迎えたことになる。本質的にはスプリンターといえる馬のスタミナを、厳しく鍛え上げることによって強化し、距離をもたせることができるのか。自分が掲げてきた調教理念の真否が試されるときがきた。今にして思えば“スプリンター発言”を繰り返しながら、戸山はある種の昂りを感じていたのかもしれない。

     しかし一方では別の狙いもあった。ひどく折り合いに苦しんだ朝日杯のレースぶりは戸山の理想とはかけ離れていた。逃げようが逃げまいが、どうだっていい。スピードを持続する、スタミナを強化するための調教はたっぷり積んできたのだから、お前は「ミホノブルボンのペースで走らせる」ことだけを考えろ。小島に厳しく言い聞かせつつ、“距離の壁に跳ね返されても仕方がない”とマスコミに匂わせることで、愛弟子にのしかかる重圧を軽減してやりたかったのだ。

     こうして臨んだ3歳の始動戦・スプリングS。小島は逃げの手に出た。道中は緩みのないラップを刻んで飛ばしながらも、直線に向くと後続との差がどんどん広がる。結果は7馬身差の圧勝だった。

     この勝利で吹っ切れたのだろう。続く皐月賞でも小島はペースを緩めずに逃げ、ナリタタイセイ以下の追撃を寄せ付けずに押し切った。さらにダービーでも12秒台前半のラップを立て続けに刻んで飛ばし、ワンサイド(4馬身差)のフィニッシュを決めた。24年前のタニノハローモアとはまったく中身が異なる“王者の逃げ切り”である。

     多くの二冠馬が苦しんだ難関の夏場も順調に乗り切ったミホノブルボンは、秋初戦の京都新聞杯もレコードで逃げ切り、無傷の三冠制覇に王手をかける。4コーナーで背後に進出してきたライスシャワー(2着)が伸び切れず、勝負の大勢が決した直線半ば、場内からは拍手が沸き上がった。それはすでに広く知れ渡っていた「戸山式スパルタ」の結晶といえる馬への称賛、そして彼らがこれから乗り出そうとしている大いなるトライへの激励と私には聞こえた。

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