story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 25
有馬記念連覇の外国産馬
グラスワンダーと融合
2017年7月号掲載
マル外旋風への拒絶の気持ちを
覆す大きな役割を果たした
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外国産馬はそれを購買し走らせる馬主にとってはもちろん味方だったが、それ以外の馬主や馬産地の人々にとっては、複雑な感情の対象であったと言えるだろう。それは競馬ファンにおいても同様のところがあり、どこか「外敵」というイメージがつきまとっていた。
開放問題がまだ深刻なテーマだった時期に、反対派の立場から書かれたひとつの記事を筆者は覚えている。掲載された媒体や書き手は忘れてしまったのだが、その論旨はこうであった。競馬ファンは父母から子に受け継がれる血のロマンを欲している。いきなりやってくるなじみの無い外国産馬が大レースを勝ちまくるようになったら、生産者の不利益になるだけでなく、ファンの意欲をも削ぐ。だから開放は進めるべきではない、という記事だった。
いまの時代にその論旨に賛同する者は少ないだろうし、そもそもこのような論点自体が存在しないはずだ。しかし当時、これは奇異な主張だったわけではなかった。開放を支持する者とて、無邪気にそれを支持していたわけではなく、日本競馬のレベルを上げるためには痛みを伴うこともやむを得ない、という立場だった。
話をグラスワンダーに戻そう。グラスワンダーが登場した時期というのは、まさにマル外全盛の時期だ。混合競走が増えた一方で日本円は強くなっていた。バブル崩壊後の不況が続いてもなお、マル外を買う動機は強かった。
具体的な数字もある。JRAの競走に出走した外国産馬(海外調教馬を除く)がいちばん多かったのは、95年産世代の389頭。これはまさにグラスワンダーの世代である。JRAにおける勝利数トップはひとつ上の世代に僅差で譲っているが、出走数(5951走)も95年産世代が史上最多となっている。
現在は世代あたりの登録数がせいぜい100頭台。当然ながら出走数もそれに伴い減っている。当時のマル外は現在の2倍から3倍のボリュームで存在していたのだ。
量の問題だけではない。日本産馬との質、力の違いも、いまとは比較にならなかった。グラスワンダーが朝日杯までに消化したレースはそれを象徴している。デビュー戦はマル外3頭で、グラスワンダーを含む2頭のワンツー決着。アイビーSは4頭いたマル外のうち3頭で1~3着。京成杯3歳Sもワンツー、朝日杯にいたっては1着から5着までがすべて外国産馬だ。
そもそも97年の朝日杯は出走15頭中11頭がマル外。1~5着を独占したあと、6着に1頭内国産馬をはさんで7~9着もマル外。そのあとの10着が後のダービー2着馬ボールドエンペラーである。
参考までに、その後グラスワンダーが骨折により出走できなかった98年のNHKマイルカップはどんな結果であっただろうか。エルコンドルパサーが優勝し、以下7着までをすべてマル外が占めた。8着に後のGⅠ2勝馬エアジハードが内国産馬として唯一のひとケタ着順を確保したが、9、10着はマル外だった。このときは出走17頭中外国産馬が13頭を占めている。
かくも吹き荒れていたマル外旋風。それに対する拒絶の気持ちが日本競馬のそこかしこにあったのは事実だし、仮にグラスワンダーがただ強いだけの馬だったなら、そこに由来するアンチ感情を浴びて終わっていたかもしれない。