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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    「善戦マン」の看板を返上したが
    走りに波が出てくるようになる

    2001日経新春杯:前年の目黒記念以降、期待ほどの成績は挙げられなかったが、年明け初戦で重賞2勝目©JRA

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     目黒記念を勝ったあと、宝塚記念4着、オールカマー5着、天皇賞(秋)7着、ジャパンC8着、有馬記念7着という戦績で00年のシーズンを終えた。シルバーメダルコレクターの座をメイショウドトウに譲ったことを馬自身意識していたかのように、一転して、あまり惜しくない負け方をするようになった。

     かと思えば、7歳になった01年初戦の日経新春杯を藤田伸二騎手(当時)の手綱で快勝し、次走、初の海外遠征となったドバイシーマクラシックでは、武騎手を背に優勝した。当時このレースはG2だったが、直線で馬群を縫うように抜け出し、ランフランコ・デットーリ騎手の操るヨーロッパ最強馬ファンタスティックライトをギリギリ差し切った、価値のある勝利だった。

     帰国後はまたも難しさを見せ、4着になった宝塚記念の次走、京都大賞典でテイエムオペラオー、ナリタトップロードらに先着する1位入線となるも、直線で外(左)に斜行。ナリタトップロードの渡辺薫彦騎手(当時)を落馬させ、失格になった。騎乗した後藤浩輝騎手(当時)が左鞭で叩いて修正を試みたにもかかわらず、左へとモタれつづけた。
     武騎手に手綱が戻った天皇賞(秋)の直線でも左にモタれ、ラスト200㍍地点から、まっすぐ走らせるのが精一杯でまったく追えなくなり、7着に終わった。

     つづくジャパンCではまっすぐ走ったが、伸びを欠いて4着。
    「善戦マン」の看板を返上し、強い勝ち方と弱い負け方の両方を見せるようになったステイゴールドは、いよいよラストランを迎えることになった。

     01年12月16日、香港シャティン芝2400㍍で行われたG1の香港ヴァーズ。

     1番人気に支持された武騎手のステイゴールドは、坦々とした流れのなか、道中は後方を進んだ。

     デットーリ騎手のエクラールが早めに動き、後ろを3、4馬身離したまま直線に入った。

     ステイゴールドは4コーナーで外を回りながら先行勢をかわし、エクラールを追った。武騎手の左鞭を合図にスパートをかけたが、ラスト200㍍地点で急激に内(右)に切れ込み、エクラールの真後ろの内埒沿いを走ることになった。
    「いつも左にモタれる馬なので、あのときも外(左)に行かないよう気をつけていました。なのに、急に内にヨレたから一瞬対処が遅れたのですが、鞭を右に持ち替えて追いつづけました」

     と武騎手は振り返る。

     そこからが圧巻だった。

     鞭と手綱の操作で外に進路を修正すると鋭く加速し、エクラールとの差を、3馬身、2馬身と詰めて行く。

     ゴールまでラスト5完歩ほどのところでエクラールの外に並びかけ、ゴールの瞬間馬体を併せたと思ったときには、頭差かわしてフィニッシュしていた。
    「外に持ち出して手前を替えたら、羽根が生えて飛びました」

     と武騎手は笑った。

     最後の10完歩ほどでどれだけ加速したのだろう。サラブレッドの運動能力の限界付近の動きだったのではないか、とも思わせられる驚異的な末脚で、日本調教の日本生産馬による海外G1初制覇という偉業をやってのけた。

     武騎手の「きょうも飛びました」というコメントは、ディープインパクトのレース後のものとして知られているが、彼が馬の走りを「飛んだ」と表現したのは、私の知る限りでは、このときのステイゴールドが初めてだった。

     これが競走馬生活の5年目で、通算50戦目だった。中・長距離戦線で強敵相手に2、3着を繰り返したすえ、7歳の暮れ、それもこの年2度目となった海外遠征で、かつて日本のどんな名馬もなし得なかった偉業を達成し、日本の競馬史上最高の騎手に「飛んだ」と言わしめたのだから、とてつもない馬だ。

    2001香港ヴァーズ©H.Imai/JRA

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