story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 23
中央競馬史上3頭めの三冠馬
ミスターシービーの脚質
2017年5月号掲載
頭差届かず2着だったものの
忘れられない毎日王冠での大歓声
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三冠馬になったミスターシービーはそのまま休みにはいった。菊花賞から中1週のジャパンカップはともかく、有馬記念に出なかったのはファンとして残念だった。シービーのいない有馬記念を勝ったのは菊花賞4着のリードホーユーだったからよけいにそう思った。
年があけてミスターシービーはアメリカJCCからスタートするはずだったが、雪でダートに変更となったために回避し、さらに蹄を痛めてしまう。休養は思いのほか長引いて、復帰できたときには秋になっていた。その間、シンボリルドルフが無敗のままダービーを制し、ミスターシービーの影も薄くなりかけていた。
11カ月のブランクを経て復帰したミスターシービーは毎日王冠で2着になり、2000㍍になった1回めの天皇賞に勝った。優勝タイム1分59秒3はコースレコードだった。父のトウショウボーイは2000㍍の日本レコードを持っている。母のシービークインも2000㍍時代の毎日王冠をレコードで逃げ切った。そして息子は2000㍍になった天皇賞をレコードタイムで制した。ミスターシービーはこの天皇賞を勝つためにうまれてきた馬のように思えた。
だが、わたしの印象に残っているのは毎日王冠のほうだった。
11カ月ぶりのレースとなった毎日王冠では公営南関東の三冠馬サンオーイに1番人気を譲っている。宝塚記念に勝ったカツラギエースが3番人気。トウショウボーイの甥トウショウペガサス、同期のオークス馬ダイナカールや“天才少女”ダスゲニーら脇役も華やかなメンバーで、直線では人気馬3頭とトウショウペガサスが横一線に並んで競り合う、見応えのあるレースだった。
結果はカツラギエースが逃げ残り、ミスターシービーは頭差届かなかったのだが、3コーナーで沸いた、それまで経験したことがない大歓声が忘れられない。この年の秋から東京競馬場に設置されたターフビジョン(当時は大型映像ディスプレイと呼んでいた)に動き出したシービーの姿が映し出され、スタンドが大きくどよめいたのだ。競馬場での観戦が肉眼から映像に変わろうとするとき、ミスターシービーが走っていた。
毎日王冠、天皇賞で完全復活を印象づけたミスターシービーだったがクラシックを戦っていたときとはあきらかに違っていた。レース後半を暴走気味に突っ走っていたシービーの姿ではなかった。追って追って追い込んでくる、枯れた追い込み馬に変わっていたのだ。後年、調教師になっていた吉永正人氏に訊くと、おなじことを言っていた。それまではちょっと促しただけで自分から前に行っていた馬が、なぜか手綱をしごかないと動かなくなってしまったのだという。
そしてシンボリルドルフとの三冠馬対決に沸いたジャパンカップはカツラギエースが逃げ切り、シービーは後方のまま10着に大敗した。有馬記念はうしろから差をつめただけで3着。5歳になった大阪杯ではステートジャガーに競り負け、春の天皇賞では菊花賞のように早めの勝負を試みたが5着に完敗した。
最後にひとつだけ書いておく。
両親の印象が強いせいか、わたしには「シービーの本質は逃げ馬だったのではないか」という思いがずっとあった。そのわだかまりを解消してくれたのは、ミスターシービーを追い込み馬にした吉永氏だった。吉永氏はジャパンカップが一番悔しいレースだったと言い、自らこんな話をしてくれた。
「じつは、ジャパンカップではシービーを先行させてみたかった」
外国馬が相手のジャパンカップはシービーの可能性を試せるレースだった。スタートも良かった。だからあのまま2、3番手を進ませたかった。
「それができたのに、やらなかったことが悔やまれる」
これまでの取材のなかで得た、もっとも記憶に残る、うれしいことばだった。
(馬の年齢は満表記で統一)
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ミスターシービー MR.C.B.
1980年4月7日生 牡 黒鹿毛
- 父
- トウショウボーイ
- 母
- シービークイン(父トピオ)
- 馬主
- 千明牧場
- 調教師
- 松山康久(美浦)
- 生産牧場
- 千明牧場
- 通算成績
- 15戦8勝
- 総収得賞金
- 4億959万8100円
- 主な勝ち鞍
- 84天皇賞(秋)(GⅠ)/83菊花賞/83日本ダービー/83皐月賞/83弥生賞/83共同通信杯4歳S
- 表彰歴等
- 顕彰馬(86年選出)
- JRA賞受賞歴
- 84最優秀父内国産馬/83年度代表馬、最優秀3歳牡馬、最優秀父内国産馬
2017年5月号
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