競馬場レースイメージ
競馬場イメージ
出走馬の様子
馬の横顔イメージ

story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    きちんと勝ちたかったひいらぎ賞で
    まさかの2着に敗れてしまう

     話は1982年12月25日の中山競馬からはじめる。有馬記念前日の土曜日は、盛りだくさんの番組が組まれていた。

     この日一番の見どころは中山大障害で、テンポイントの弟キングスポイントが春秋連覇を達成した。天才ジャンパーによる圧巻の一人舞台だった。

     メインレースは準オープンのクリスマスステークス(2200㍍)だった。勝ったビンゴハイデンは皐月賞馬ビンゴガルーの弟、三冠戦線でミスターシービーと戦うビンゴカンタの叔父である。3着にはサクラスマイルの名前もある。5年後の有馬記念でかなしい事故に遭うサクラスターオーの母だ。

     最終レースには1600㍍オープンがあった。勝ったのは牝馬のタケノハッピー(2年前の有馬記念で大橋巨泉氏が本命にしていた)。2着はバリシニコフ、悲運のアメリカ産馬ギャラントダンサーの弟だ。皐月賞馬ハワイアンイメージ(6着)も出ていたが、問題は3着のホリスキーだった。1カ月前に菊花賞をレコード勝ちした馬が有馬記念前日のマイルのオープンに出走してきたのだ。パドックに飛び交った罵声が忘れられない。

     あの日のわたしのメインはミスターシービーが出るひいらぎ賞だった。現在のホープフルステークスに相当する2勝クラスの特別で、コーネルランサーやカブラヤオー、プレストウコウ(2着ラッキールーラ)らが勝っている、クラシックをめざす関東馬の登竜門である。

     ミスターシービーはここまで2戦2勝。デビュー戦は3番手から4コーナーで先頭に立って逃げ切ったが、2戦めの黒松賞ではスタートで後手を踏んで、追い込んできわどく勝っていた。

     クラシックをめざすならば、ここではきちんと勝ちたいところだが、ふたたび出遅れてしまう。レースの流れは遅く、その最後方をミスターシービーは走っている。4コーナーを回り、直線で3番人気のウメノシンオーが先頭に立った。そこにミスターシービーが追い込んでくる。追って、追い詰めて、並びかけたところがゴールだった。首差届かなかった。

     まさかの2着。負けた悔しさはもちろん、レースぶりがショックだった。

     オーナーブリーダーの千明大作氏(群馬県・千明牧場)は強烈な逃げ馬をイメージしてシービークインにトウショウボーイを配合したのだという。そして、牧場の看板馬に育ってほしいという願いを込めてミスターシービーと名づけた。ミスターシービーは二代めで、千明氏の祖父、千明賢治氏所有の初代は第6回ダービーで逃げて10着だった。いいスピードを持っていた馬だったらしい。なのに二代めは2戦つづけて出遅れ、追い込みが届かず負けてしまった。

     ところがその2着に喜んでいた男がひとりだけいた。吉永正人騎手である。

     吉永騎手といえば追い込みである。コウジョウ、ゼンマツ、シービークロスである。「VSOP」(ベリースペシャルワンパターン)と揶揄する人もいたが、わたしの印象は、逃げるか追い込むか「ツーパターン」だった。逃げはシービークイン、シャダイダンサー、ギャラントダンサーである。吉永騎手が54度めの騎乗ではじめて八大レース(クラシック、天皇賞、有馬記念)に勝ったモンテプリンスも前々で勝負する馬だった。

     頑固なほど徹底したレースをした吉永騎手は、ひいらぎ賞の走りから、前半我慢させれば最後の追い込みがいきると確信したのだという。ミスターシービーは一度気持ちに火が点くと止められないほど突っ走ってしまう馬だった。距離も2000㍍ぐらいがぎりぎりだった。そんな馬がクラシックを戦っていくためには、レースの序盤はできる限りうしろで我慢させる必要があった。のちに追い込み一辺倒の吉永騎手に不満や批判が集まったときに、友人の中島啓之騎手が、
    「スプリンターのシービーが三冠馬になれたのは、マーちゃん(吉永騎手の愛称)がああいう乗り方をしたから」

     と擁護した話は有名だが、好むと好まざるとにかかわらず、ミスターシービーは吉永正人騎手の馬だった。

     1982年のクリスマスに追い込み馬ミスターシービーが誕生した。

    皐月賞:不良馬場の中、泥だらけになりながらも力強く馬群を抜け出し勝利、父トウショウボーイとの父子制覇を達成した©JRA

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