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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    文字通り立錐の余地もない
    中央初見参の弥生賞

    地方競馬から中央へ移籍しての初戦、弥生賞は、内のニューサントを鮮やかに差し切った©JRA

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     1972年7月。大井競馬場でハイセイコーは競走馬としての第一歩を踏み出した。

     デビュー前から関係者はその能力の高さを確信していた。新馬らしからぬ雄大な馬体も調教での走りも水準をはるかに超えていた。

     実際、初戦からハイセイコーは圧倒的なパフォーマンスを披露してくれた。まだ幼さを感じさせる走りだったが、終わってみれば従来のレコードを1秒近く上回るタイムで圧勝。その後も後続馬に大差をつけて勝ち星を重ね、晩秋を迎える頃にはスポーツ紙が「大井に怪物現れる」などと報道し始めた。

     こうして、それまで一部の競馬ファンの間で囁かれていた怪物の存在は一気に広まっていった。そして、11月末、重賞の青雲賞で6連勝を記録すると、中央移籍の時期が取りざたされ、翌年の1月に実現。熱狂の日々の幕が開いた。

     当時は中央競馬と地方競馬の間には高く聳え立つ壁があった。それを乗り越え、日本ダービーを頂点とするクラシック戦線に名乗りをあげた。競馬をギャンブルと忌み嫌っていた人も巻き込んでハイセイコーへのエールは時間の経過とともに高まっていった。

     さらに、同時期、田中角栄内閣が発足している。エリートとは無縁の田中は当初、今太閤、庶民宰相として絶大な人気を博していた。そんな時代の風も彼の人気を後押しした。

     3月4日。弥生賞。この日、中山競馬場には12万3000人の大観衆が押し寄せた。改修を重ね、広くモダンな現在の競馬場と違い、まだ狭く、鉄火場的な雰囲気も漂う場内は人で溢れかえった。文字通り立錐の余地もなく、真っすぐに歩くことすらできず、ただ群衆の流れに身を委ねるしかなかった。

     レース直前、スタンドの最前列に陣取ったファンは、その走りを一目見ようと前へ前へと進もうとする人の波に抗しきれず、身の危険を感じてフェンスを乗り越え外ラチ沿いに侵入するという“事件”も起こった。

     そんな異様な雰囲気の中、ハイセイコーの中央デビュー戦は定刻よりやや遅れてスタートが切られた。無事にゲートを出ただけで大歓声があがり、好位置につけると、その歓声は一段と大きくなった。さらに直線で先頭に立つと場内の実況アナウンサーの声も聞こえなくなり、観衆のボルテージは頂点に達した。

     勝利。しかし、着差は1馬身4分の3。道中も手綱を取った増沢末夫の手が盛んに動き、直線からゴールまでは追い通しだった。冷静に振り返れば決して楽な勝ち方ではなかった。レース前、果たしてエリート候補生たちを何馬身引き離して勝利するか、と期待したファンも、この結果と走りの様子を見て一瞬戸惑った。が、すぐに思い直した。
    「はじめての芝とコース。これが当たり前」

     ただ勝ってくれたことに満足し、ゴールを駆け抜ける怪物に盛大な拍手を送った。

     続くスプリングステークスも好位から抜け出す“安定”したレースで白星を重ね、クラシック制覇の夢は広がっていった。

    重馬場となった皐月賞の4コーナー。青帽のハイセイコーは外から進出開始©JRA

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