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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    当初は高い評価ではなかったが
    走りで自らの能力を証明していった

    1964日本ダービー【JRA】

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     61年4月2日、北海道浦河町の松橋吉松牧場でシンザンは生を受けた。父のヒンドスタンはイギリスで生まれ、愛ダービーなど8戦2勝の成績を残し種牡馬生活に入ったが、産駒に恵まれず55年に日本へ輸入された。

     当初は種付料も高額で、それほど人気を集めなかったが、初年度産駒から活躍馬を輩出し、シンザンが生まれた61年に初のリーディングサイヤーになると、その後、6度も種牡馬界のトップに君臨している。ただし、そんな父の“走る”血を受け継いだシンザンだが、最初から期待されていたわけではない。

     関西の名門、武田文吾厩舎へ入厩した同期生の中でも2番手グループの一頭と目されていた。実際、2歳の11月に予定していたデビュー戦に、この年の新馬で前評判の高かった同じヒンドスタンを父に持つウメノチカラが出走することを知った武田調教師は勝ち目がないと1週遅らせることにした。そして武田の評価は翌年の1月のオープン戦で無傷の4連勝を飾っても変わらなかった。

     それが一変したのは東上初戦のスプリングステークスだった。

     その前にシンザンを語る上で避けては通れないエピソードを紹介しておかなければならない。

     4連勝後の間もない朝、調教を終えて引き上げてきたシンザンの後肢から出血しているのが認められた。調べた結果、後肢の踏み込みが強く、前脚の蹄鉄にぶつかることによって生じた外傷だった。

     このままでは競走生活も危ぶまれる。診療所の獣医や装蹄師を交え、様々な対策が講じられ、考案されたのが、後に“シンザン鉄”と呼ばれる特殊な蹄鉄だった。

     後肢の蹄鉄に蹄を保護する鉄の覆いをつけ、前肢の蹄鉄の上の部分にT字型の鉄を張りめぐらす。これならば鉄と鉄がぶつかるので蹄を傷つけることはない。

     もちろん、この特別な蹄鉄はレースで使用されることはなく調教用のものだったが、これによって怪我を気にせずに攻め馬ができるようになった。

     ちなみに、シンザンは調教ではまったく走らなかったことでも有名だが、“シンザン鉄”は通常の蹄鉄の倍は重く、これも当然のことだったかもしれない。

     迎えた東上初戦。3月29日に行われたスプリングステークスは錚々たるメンバーが顔を揃えていた。前述のウメノチカラを筆頭に京成杯、弥生賞の優勝馬トキノパレード、さらにブルタカチホ、アスカなど有力馬が本番前に集結した。この中にあって、ここまでクラシックに直結するようなレースには出走せず“裏街道”を歩んできたシンザンは脇役の存在にすぎなかった。それは6番人気という評価が物語っていた。

     しかし、好スタートから無理なくレースの流れに乗り、直線で気合をつけられると鋭く反応し2着馬に半馬身の差をつけて快勝。戦前、苦戦を予想し、上京しなかった武田はこの結果に驚き、愛馬の能力を見抜けなかった自分の見る目がなかった、とシンザンに詫びたという。

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