story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 15
日本の最強ステイヤー
メジロマックイーンと天皇賞
2016年7月号掲載
世間を見返してやりたい
その気持ちが最大の原動力に
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種牡馬時代の繋養先、社台スタリオンステーションの徳武英介さんが以前、現役時代のメジロマックイーンの強さをこんな風に表現してくれたことがある。
「なんかあの馬、ブルドーザーみたいだったよね。『どけどけ~』って立ち木をなぎ倒していくというか」
手にした勝ち星のほとんどは好位追走から早めに先頭へ立ち、そのまま押し切る形で挙げたもの。「華麗」とか「豪快」などと形容される追い込み勝ちはひとつもなかった。最大の武器はパワフルかつ息の長い末脚で、そこから連想されるのはステイヤーとしての資質の高さだ。
しかしメジロマックイーンが示した能力は決して、ステイヤーという枠組みに収まるものではなかった。引退に際し、武豊騎手が「安田記念を走らせてみたかった」とコメントしたのは有名な話。6歳時には3000㍍級の長距離より、もう少し短めの舞台へ適距離がシフトしていた節もある馬が、“ブルドーザーのように”安田記念を走る姿を私も見てみたかった。常識を覆す成長曲線を描いたメジロマックイーンなら、距離の境界だって易々となぎ倒したかもしれない。
そう思わせるぐらいの能力を秘めた馬が、極めて特異なアプローチで生産されたことも、改めて強調しておきたい。生産者は強い馬をつくるために配合を考える。しかし「ウチの繁殖牝馬にアサマを受胎させろ」と大号令をかけたときの豊吉はまず、配合ありきだった。もちろん、メジロアサマへの期待感もあっただろうが、反骨精神の強さで知られた男のこと。走るとか走らないとか以前に、失格の烙印を押された種牡馬の産駒を自分の牧場で誕生させ、種無しスイカなどと揶揄した世間を見返してやりたいとの気持ちが、彼を駆り立てた最大の原動力だったに違いない。
同様のことは豊吉の遺言を受け継ぎ、メジロティターンへの配合を積極的に行っていった牧場のスタッフにも指摘できる。期待や予感がなかったとはいわないものの、それよりも彼らには「先代の遺志をかなえる」という使命感のほうが遥かに強かっただろう。授精率が明らかに低かったメジロアサマ、メジャーな存在とはいえなかったメジロティターンへの種付けは、オーナーブリーダーだからできたことだが、本業の建設業とは独立採算制で運営されており、経営資金を生産馬の賞金で賄っていたオーナーブリーダーだけに、行く先を不安に思う気持ちだって現場には少なからずあったはずだ。
それでも彼らは一念を貫き通し、細い糸は繋がれ、稀代の名優が誕生した。その事実には様々なノウハウがどれだけ進化してもなお、人智が及ばない部分が残る競馬の“深遠”が示されているようにも思える。
(本文敬称略)
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メジロマックイーン MEJIRO MCQUEEN
1987年4月3日生 牡 芦毛
- 父
- メジロティターン
- 母
- メジロオーロラ(父リマンド)
- 馬主
- メジロ商事㈱
- 調教師
- 池江泰郎(栗東)
- 生産牧場
- 吉田堅氏
- 通算成績
- 21戦12勝
- 総収得賞金
- 10億1465万7700円
- 主な勝ち鞍
- 93宝塚記念(GⅠ)/91・92天皇賞(春)(GⅠ)/90菊花賞(GⅠ)/91・93京都大賞典(GⅡ)/93大阪杯(GⅡ)/91・92阪神大賞典(GⅡ)
- 表彰歴等
- 顕彰馬(94年選出)
- JRA賞受賞歴
- 91最優秀4歳以上牡馬
2016年7月号