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story 未来に語り継ぎたい名馬物語

    北野豊吉オーナーの執念なくして
    絶対に生まれてこなかった馬

    91年天皇賞(春)を制し〝父仔3代天皇賞制覇″を達成。武豊騎手の手には同レース制覇に執念を燃やした故・北野豊吉オーナーの遺影が見られる©F.Nakao

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     大きなレースを勝ち慣れたオーナーでも、「ことのほか嬉しい勝利」というのはあるものだ。メジロの冠名で知られた馬主・北野豊吉にとって、メジロティターンの天皇賞(82年秋)はまさしくそれにあたった。

    「ダービーよりも天皇賞を勝ちたい」という独特の価値観を掲げ、「馬主の最高の名誉と喜びは天皇盾を手にすることだと思っている」とまで話したこともある豊吉はメジロタイヨウ(69年秋)、メジロアサマ(70年秋)、メジロムサシ(71年春)とそれまですでに3回、“最高の名誉と喜び”をかなえていたが、自身が創設(67年)したメジロ牧場の生産馬で天皇賞を制したのはこのときが初めて。しかもメジロティターンは豊吉が燃やした執念をなくしては、絶対に生まれてこなかったはずの馬だった。

     メジロティターンの父メジロアサマはパーソロンの産駒で、73年に種牡馬生活のスタートを切った。4歳5月の安田記念で重賞初制覇を飾った後、「パーソロン産駒は早熟のマイラー」という従来の定説を覆して同年秋の天皇賞(3200㍍)に優勝。2年後の有馬記念(2着)を最後にターフを去るまで息の長い競走生活を送り、幅広い距離適性を示した白い天皇賞馬(メジロアサマは日本の競馬史上初の“大レースを勝った芦毛馬”でもある)にかかる期待は大きく、当時の内国産種牡馬では異例のシンジケートも組まれたという。

     ところが初年度に種付けされた28頭の繁殖牝馬は、ことごとく不受胎に終わった。シンジケートは解散され、身の置き場を失った馬は日高の種馬場からメジロ牧場へ送り返される。種無しスイカなどと揶揄する声もあがったメジロアサマには、「神馬として譲ってもらえないか」とのオファーも舞い込んだ。しかし豊吉は「これほどの馬を神馬にしたらそれこそ罰があたる」と激怒。「ウチの繁殖牝馬に何とかアサマの種を受胎させろ」と牧場のスタッフに厳命した。

     無茶振りともいえるトップの指令を受けて、メジロ牧場では2年目以降もメジロアサマへの種付けを続ける。空振りが重なり、貴重な発情が次々に犠牲となったが、この2年目にはアラブの繁殖牝馬が1頭受胎。「最初の発情で受胎しなければ別の種牡馬に配合する馬」と「2回目以降の発情も種付けする馬」にグループ分けしたうえで、すべての繁殖牝馬(極端な近親配合になってしまうケースを除く)をメジロアサマに配合するプロジェクトが実施された3年目からは、サラブレッドの繁殖牝馬にも受胎馬が出始め、5年目の種付けでは牧場の「看板」といえた輸入繁殖牝馬シエリルの受胎にこぎつける。

     そして翌年、シエリルが出産した父と同じ芦毛馬はメジロティターンと名付けられ、4歳秋の天皇賞をレコード勝ち。断ち切れていてもおかしくなかった細い糸を執念で繋いだ豊吉に、冥利に尽きる歓喜をもたらしたというわけだった。

     そのメジロティターンが種牡馬入りすることになった84年の冬、豊吉は2人の息子と牧場のスタッフを目白の自宅に呼び寄せ、こんな熱弁をふるった。

    「アサマで天皇賞を勝ち、2代目のティターンでまた勝てた。あんなに嬉しいことはなかったし、これで3代制覇を実現できたらオレにはもう思い残すことはない。だから是非、みんなで頑張ってその夢をかなえさせてくれ」

     ところが直後の2月17日に豊吉は急死。生前にふるった熱弁はそのまま遺言として伝えられ、以降は「ティターンの仔で天皇賞を」が牧場の宿願となる。

     ただ、種牡馬入りした当初のメジロティターンは、お世辞にもメジャーな存在とはいえなかった。従来のレコードを1秒も短縮した天皇賞の他にも、4歳5月の日経賞を10馬身差で圧勝するなど、何か得体の知れない強さを感じさせた現役時代だが、天皇賞の後は9戦未勝利。尻すぼみに終わった感を否めず、スピード化が進む時代の潮流とも外れた内国産種牡馬に注目する人は少なかったのだ。

     実際、初年度の種付頭数は12頭、2年目は7頭、少し盛り返した3年目も16頭にとどまる。それでもメジロ牧場は所有する繁殖牝馬を積極的に配合した。先の種付頭数のうち、半数近くはメジロ牧場所有の牝馬が占めていたと書けば、豊吉の遺言をかなえるために彼らがどれだけ精力的なバックアップを続けたかがお分かりいただけるだろう。

     そして3年目の86年、メジロティターンに配合された16頭のなかには、メジロ牧場が浦河の吉田堅牧場に預託していたメジロオーロラという繁殖牝馬がいた。翌年に誕生した芦毛の牡馬はメジロマックイーンと名付けられ、半兄のメジロデュレン(86年の菊花賞、87年の有馬記念に優勝)と同じ池江泰郎調教師の管理馬としてデビュー。豊吉の強い意志と遺志に支えられた血のドラマが、ここに幕を開ける。

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