story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 14
数々の名勝負を残した流星の貴公子
テンポイントの運命
2016年6月号掲載
日経新春杯でまさかの故障
前例のない大手術をおこなうも…
〈もし朝がきたら
もし朝がきたら…〉
山崎ハコの歌は終わるが「さらば、テンポイント」にはまだ先がある。
〈だが 朝はもう来ない
人はだれもテンポイントのいななきを
もう二度ときくことはできないのだ〉
寺山修司は有馬記念の観戦記で、3歳のころのトウショウボーイとテンポイントを「夜明け」と「たそがれ」、「レスラー的肉体美」と「ボクサー的肉体美」というように対比した。寺山はアメリカの作家ネルソン・オルグレンの『朝はもう来ない』――シカゴのスラム街を舞台にボクシングのチャンピオンを夢見た不良少年の物語――の影響を強く受けて、処女シナリオ「十九歳のブルース」(非映画化)や長編小説『あゝ、荒野』を書いている。日本では多くの読者を得られなかったオルグレンの、熱狂的なファンのひとりが寺山だった。
〈朝はもう来ない〉
この一行のために寺山はテンポイントの追悼詩を書いたのではないか――。
本稿のために寺山のエッセイと『朝はもう来ない』を読み返していてそんなことを考える。テンポイントが死んで38年めの春がすぎた。
◇
有馬記念から1カ月後の78年1月22日、京都競馬場。日経新春杯のパドックでは粉雪が舞っていた。
関係者には応援してくれた関西のファンへの感謝を伝えるレースならば、見守るファンには壮行レースだった。
しかしテンポイントは66.5㌔という重量を背負っている。ハンデ差をついて一泡吹かせようとする馬も当然いる。テンポイントがトウショウボーイを負かすために競りかけていったように、楽には逃げさせまいと目論んでいる。
4コーナーにさしかかったとき先頭のテンポイントの腰が落ちた。騒然とするスタンド。左後脚を上げながら、前に進もうとするテンポイントの姿を目にしたとき、一番恐れていた事態が起きてしまったことを人々は知った。
間違いであってほしい。いや、けがでも軽傷ならば救われる。ただ願うしかなかった。
だが現実は「左第三中足し(口へんに多)開骨折並びに第一趾骨複骨折」による競走中止。蹄の上部の複雑骨折で、通常ならばそのまま安楽死となる重傷だった。
一晩だけ猶予をもらった馬主の高田久成は、熟考の末に、やはり楽にさせてあげようと決めた。ところがそこに、
「テンポイントを殺さないで」
という電話が殺到する。その声に押し切られる形で高田は手術を断行する。
1月23日。日本中央競馬会は獣医師33名によるチームを結成し、砕けた4本の骨をボルトでつなぎ合わせる前例のない大手術をおこなった。
テンポイントの事故と手術後の経過はスポーツ紙だけでなく、一般紙でも報道された。栗東トレーニングセンターの厩舎には全国のファンから――競馬に興味のなかった女性やこどもからも――手紙や折り鶴が届けられた。折り鶴に守られるように馬房から首を出す、やせ細ったテンポイントの姿が涙を誘った。
一時期、体温も心拍数も安定していると報道されたが、体を支えていた右後肢に蹄葉炎(蹄内部の炎症)を発症したテンポイントはしだいに衰弱し、事故から42日後の3月5日の朝に力尽きた。
テンポイントの死はテレビのニュースでもとりあげられ、一般紙も社会面で大きく報じた。
名馬の悲劇はいつもわたしたちのこころに深く刻まれる。寺山修司も書いたナスノコトブキやキーストン。ハマノパレードのかなしい最期。テンポイントのあとにも、弟のキングスポイント、サクラスターオー、ライスシャワー、ホクトベガ、サイレンススズカらの名前がすぐに浮かぶ。
しかし、そのなかでもやはりテンポイントはとくべつな存在である。テンポイントの死は競馬界の悲劇を超えた昭和史の一事件としてずっと語られていく。
(文中敬称略)
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テンポイント TEN POINT
1973年4月19日生 牡 栗毛
- 父
- コントライト
- 母
- ワカクモ(父カバーラップ二世)
- 馬主
- 高田久成氏
- 調教師
- 小川佐助(栗東)
- 生産牧場
- 吉田牧場
- 通算成績
- 18戦11勝
- 総収得賞金
- 3億2841万5400円
- 主な勝ち鞍
- 77有馬記念/77天皇賞(春)/75阪神3歳S/77京都大賞典/77鳴尾記念/77京都記念(春)/76スプリングS/76東京4歳S
- 表彰歴等
- 顕彰馬(90年選出)
- JRA賞受賞歴
- 75最優秀2歳牡馬/77年度代表馬、最優秀4歳以上牡馬/78マスコミ賞
2016年6月号