story 未来に語り継ぎたい名馬物語
未来に語り継ぎたい名馬物語 14
数々の名勝負を残した流星の貴公子
テンポイントの運命
2016年6月号掲載
4歳春の天皇賞でおとずれた
「夢に見た栄光のゴール」
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テンポイントはかなしい運命に絆(ほだ)された名馬だった。
その生涯には「暗さ」がつきまとっていた。それは祖母のクモワカを知る人々によって伝承されてきた生と死の「暗さ」でもある。
クモワカは桜花賞で2着になったほどの活躍馬だったが、4歳になった1952年11月に伝染性貧血症の感染を疑われる。「伝貧」といわれるこの感染症は、当時はまだワクチンもなく、発病した馬は高熱を繰り返しながらやせ細り、死んでいった。戦前には伝貧によって牧場が全滅したとか地域から馬が消えたとかいう話もあったほどで、感染した馬は家畜伝染病予防法によって殺処分とすることが義務づけられていた。
だが、愛馬を殺しきれない馬主の山本谷五郎はクモワカを研究馬として京都競馬場の隔離厩舎にかくまう。クモワカは3年がすぎても発病しなかった。これならば繁殖牝馬になれるだろうと思った山本は北海道に移動させる。このとき、クモワカを預かったのが吉田牧場である。伝貧の感染が疑われた馬を受け入れるという、普通では考えられない牧場の英断がなければテンポイントの物語はうまれなかったことになる。
丘高という血統名に変わって繁殖牝馬になったクモワカは57年に天祐という名前の牡馬をうむ。しかし、殺処分になったはずの牝馬の息子は血統登録を拒否され、そこから日本軽種馬登録協会を相手取った裁判に発展する。これが有名な「クモワカ事件」である。
裁判は4年後に結審、クモワカ側が勝利する。クモワカの名前が血統書に復活したとき、天祐は6歳になっていた(その後、ツキサクラの名でデビューし、4戦したが勝てなかった)。そしてこの年の春にうまれたのが、母が2着に負けた桜花賞に勝ち、やがてテンポイントをうむワカクモである。
人々の思いによって生かされ、つながれた命を受けたワカクモの息子はあかるい栗毛で、細身のきれいな馬だった。顔には形のいい“流星”が流れている。
馬主の高田久成は当時の新聞記事の活字(8ポイント)よりもちょっと大きな文字で書かれるぐらいの馬に育ってほしいという、控えめな願いをこめてテンポイントと名づけた。
テンポイントはすばらしく強かった。
2歳夏の函館の新馬戦を10馬身差でレコード勝ちすると、もみじ賞も9馬身差で楽勝する。さらに、関西テレビの杉本清アナウンサーが、
「見てくれこの脚、これが関西の期待、テンポイントだ!」
と関東に向けて実況した阪神3歳ステークス(当時)は7馬身差で勝った。
76年2月、テンポイントは早々に東京競馬場入りした。層の厚い関東ではさすがに楽勝とはいかなかったが、東京4歳ステークス(現共同通信杯)、スプリングステークスと連勝してクラシックの本命馬となる。
しかし皐月賞では生涯のライバルとなるトウショウボーイに完敗する。つづくダービーはレース中に骨折して7着。故障が癒えて臨んだ菊花賞では直線でいったん先頭に立ったが、外にふくらむ悪い癖が出て、内から伸びてきたグリーングラスに敗れた。有馬記念でも名だたる古馬に先着しながらトウショウボーイには歯が立たなかった。
「不運」とか「無冠」ということばで形容されるようになったテンポイントだが、4歳になると体もひとまわり大きくなり、力強さを増していた。
京都記念(春)で10カ月半ぶりの勝利をあげると、鳴尾記念にも勝った。ともに2着とは首差だったが、59、61㌔を背負っての勝利は大きな価値があった。「関西の期待」は完全復活した。
春の目標であった天皇賞にはトウショウボーイの姿はなかった。だからこそ負けてはならないレースを、テンポイントはしっかりとものにする。直線では菊花賞のようにふらつくシーンがあり、内からグリーングラスとホクトボーイ、外からクラウンピラードが追い込んできたが、体勢を立て直したテンポイントは同世代の猛者たちを従えてゴールする。
「これが夢に見た栄光のゴールだ。テンポイント、1着!」
杉本清の声も弾んでいた。
しかし次の宝塚記念では半年ぶりのレースとなったトウショウボーイに逃げ切られてしまう。スローペースを二番手で追いかけたが、追っても追っても差はつまらなかった。
またしてもライバルの後塵を拝することになるのだが、この敗戦を機にテンポイント陣営には打倒トウショウボーイへの闘志がわきあがってきた。
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